第866回談話会要旨(2012年12月2日=いくつかの「先祖の話」:京都で読む柳田祖霊神学)

※『日本民俗学』274号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。

主な登場人物2 ―京大文化史学派の『先祖の話』受容―

京都大学・菊地暁

 今回のシンポジウム「いくつかの『先祖の話』 ―京都で読む柳田祖霊神学―」(日本民俗学会第866回談話会、京都民俗学会第31回年次研究大会シンポジウムを兼ねる)はシンポジウム「京都で読む柳田国男」(2005年、柳田國男の会、国立歴史民俗博物館共同研究「日本における民俗研究の形成と発展に関する基礎研究」、京都大学人文科学研究所共同研究「近代京都研究」共催)の第2ラウンドともいうべき企画である。「京都で読む柳田国男」は、民俗学史をとりまくいくつかの「中心史観」への挑戦だった。柳田中心史観、純粋民俗学中心史観、東京教育大中心史観、そういった一連の偏向をともなう学史叙述は、結果的に、地方や隣接分野における実践の脱落につながった。そこでその偏向を転倒させるため、「京都」という視点の挿入を試みた。すなわち、粗野に対する洗練、野外に対する文献、在野に対する官学といった、「野の学問」の正反対を抱え込む「京都」をあえて前景化させることによって、民俗学という運動の射程と多様性を可視化させようとしたわけである。

 その結果浮かび上がったのが、京都帝国大学・文学部史学科を拠点とした「京大文化史学派」、特に、国史学教授・西田直二郎を中心に結成された「京大民俗学会」の存在である。考古学、地理学などの隣接分野とも連携した京大文化史学派においては、柳田・折口の民俗学や京都の民間学などとの接触交流をもちつつ、狭義の文献史学にとらわれないユニークな史風が探求されていた。そうした環境のなかから多彩な歴史民俗学者が輩出される。「京都」という磁場のもつ多様なポテンシャルとその表現形に、あらためて光が当てられることとなった。

 今回の第2ラウンドでは、その意義をより具体的な研究分野やフィールドから検証することを目標にした。そのための補助線が柳田国男『先祖の話』(1946)である。柳田民俗学の到達点と目されることの多いこの書は、常民における祖先祭祀の根源を尋ねる「原型論」であり、民族の自然に根ざした戦後社会像を模索する「政策論」であり、そしてそこに柳田自らの祖先観(感)が浸潤することを免れない「神学書」でもあった。それは多様な民間信仰に統一的な解釈を与える作業仮説として広範な影響を与え、であるがゆえに、その過剰な一元論や仏教忌避の論調は「柳田祖霊神学」として批判に晒された。この問題作に示された「京都」の反応をトレースし、再び「京都」からの学史のヴァージョンアップに挑んだ。

 今回の「主な登場人物」は、平山敏治郎、柴田実、五来重、高取正男、竹田聴洲である。柳田から届いた手紙を読んで自ら『先祖の話』を書かねばと勘違いした平山。そつのない柳田読解で一頭地を抜き、柳田にも将来を嘱望されていた柴田。柳田の講演「盆と行器」(1937年)に触発され、「仏教民俗学」樹立へと邁進した五来。柳田説を批判的に摂取し新たなモデリングを志向した高取。そうした各人各様の受容にあって、『先祖の話』をもっとも切実に受け止めたのは、おそらく竹田だろう。

 戦後、丹波の田舎寺で住職を務めた竹田は、宗派や教義の違いとは無関係に、ただただ葬式と法事の実行を求められる「常民仏教」の現実を目の当たりにし、改めて柳田民俗学に開眼する。寺伝史料を「伝承」として扱うユニークな史料分析に大和高原や丹波盆地における濃密なフィールドワークを結合させた竹田畢生のライフワーク『民俗仏教と祖先信仰』(1971)は、『先祖の話』に対する京大文化史学派の、最も重い返答といって良いだろう。

 『先祖の話』受容の京大文化史学派的特徴は3点ある。まず、「仏教者」が読んだこと。この学派には、竹田、五来など、僧籍にある学徒が少なくなく、「仏教アレルギー」とは無縁に本書を読み解くことが可能だった。神仏習合を基調とした日本民衆宗教史の理解にあたって、この意義は決して小さくはない。つぎに、「隣接分野」とともに読んだこと。この学派は基本的に「歴史家」だが、同時に、考古学、地理学などへの造詣も深く、宗教学、仏教学などとの交流も盛んだった。こうした環境ゆえに、民俗資料のみならず文献資料、考古資料も合わせて柳田テーゼを検証したことが第2の特徴といえる。そして最後に、「近畿/西日本」で読んだこと。竹田が奈良、京都を主な調査地とし、五来が高野山を拠点としたように、京大文化史学派は「近畿/西日本」をフィールドとすることが多かった。族制、墓制にみられる近畿的/西日本的特徴、豊富な文献資料の残存といった条件が、彼らの研究に与えた影響については相応の配慮が必要だろう。

 いま、あらためて『先祖の話』、および同書に触発された京大文化史学派の作品群(=「いくつかの『先祖の話』」)を読み直す意義とは何だろうか。当たり前ながら、この読み直しで民俗学や現代社会の抱える問題が一挙に解決するなどということはあり得ない。とはいえ、これらの作品群に学ぶべきものが何もないかといえば、実は大いにありそうに思える。そしてそのためには、彼らが格闘した文脈をきちんと確認することが、一見逆説的に見えつつ、じつは近道だろう。その作業を通じて、彼らと私たちを隔てる距離、そして、彼らの作品を現代に再生させるための方策が、自ずと浮かび上がってくると信じたい。今日、「同族」はおろか「核家族」さえ崩壊の一途をたどる最中にあって、「先祖」をめぐる表象と実践にどのような選択肢があり得るのか。私たちは、いま、私たち自身の『先祖の話』を必要としている。そのために、まずは、「いくつかの『先祖の話』」に向き合う必要がありそうだ。

祖先・氏神と同族結合 ―竹田聴洲の業績から―

佛教大学・大野啓

 本報告は家・同族研究の観点から竹田聴洲の業績を検討することを目的としたものである。民俗学やその周辺分野学会における家・同族研究で、竹田の代表的著書である『祖先崇拝』や『村落同族祭祀の研究』は、参考文献として挙げられることが多いものの、明確に研究史の中に位置付けた論考を報告者の管見の限りにおいてみたことはない。さらに、竹田の業績に対する評価は緻密なフィールドワークと文献調査に裏打ちされた実証研究というものであり、竹田の同族論そのものに対する評価は、ほとんどなされていないのが実態であるといえる。そこで、本報告では竹田の家・同族論がどのような特徴を持つのか検討していく。

 竹田は(1)家の本質は世代を超えて連続する系譜関係である(2)系譜関係を根幹として祖先崇拝(祖先祭祀)は成立する(3)家は自らの永続への絶対的要求を内包しており、一世代限りの家族とは異なる(4)系譜関係から見ると傍系に属する分家も含まれているため、同族結合の理解が家の理解につながる(5)同族結合には系譜関係に加え、財産共有、労働の協同、祭祀の協同を行ない得る地縁関係にあることが重要である(6)同族結合の本質は協同祭祀である(7)同族関係と親族関係は重なり合うが異なる原理によるものであるといった家・同族の特徴を析出している。これらのことから、竹田が祖先崇拝(祖先祭祀)と系譜を鍵として家論・同族論を構築しようとしていたことが推測することができる。竹田が祖先崇拝を鍵として家論・同族論を構築しようとしたことは、『先祖の話』の影響が非常に大きいことは疑うべくもないことである。

 喜多野清一は同族を家父長制家族の拡大発展形であると捉え、同族は系譜関係を相互に認知し、分家が本家を系譜の本源であるとすることにより、本家権威が確立されるとした。竹田は本家が分家の系譜の本源であるとした喜多野の論を踏まえた上で、系譜に関する見解を構築してきたことを指摘できる。喜多野との議論を通じて同族論を発展させた有賀喜左衛門は家・同族を生活組織として把握し、本質的に家・同族経営のため非親族の成員をも包含するものであるとした。そして、家長や本家が家経営の中枢を占め、家成員や分家は家長や本家に従属した役割が与えられているとした。有賀の論では家・同族の存続のために生活を共同しているとし、系譜関係を同族の本質としながら生活の協同、特に祭祀の協同が同族結合の本質であるとする竹田の論への影響が大きくみられる。

 竹田の家・同族論は祖先崇拝を根幹として、同族の構造を把握するために喜多野や有賀の論を使って論を構築していったのである。竹田は柳田と喜多野・有賀の論をつなぐ論を構築していったのであろう。

 さらに、竹田の業績の特徴は丹波を中心のフィールドとして非常に綿密な実証研究を行なってきたことである。そして、株(同族)を村落祭祀における単位として把握し、検討を行なってきた。このような、同族の位置づけは家・同族を分析する際に村落内における位置づけをほとんど考慮してこなかった有賀・喜多野の家論・同族論とは一線を画するものであった。歴史社会学の長谷川善計らは家・同族を貢租負担の単位として捉え、村落の中での公的な単位としての性格があることを明らかにした。そして、長谷川は家・同族の村落における位置づけを念頭に置き、新たな論を構築していったのである。長谷川が竹田の業績をどの程度踏まえていたのかは不明であるが、同族を村落の単位として捉える視点は、近世の村落祭祀も分析対象としていた竹田と共通した認識があったであろうことは想像に難くない。しかし、竹田は村落祭祀を分析するにあたっても、祖先祭祀の延長線上としての同族祭祀との関連に着目していたため、村落社会において家・同族の存在を十分に顧慮した研究を進展させることはなかったのである。いわば、竹田の家・同族研究は家の存在を裏打ちする系譜の始原である先祖への崇拝を分析することが問題であったのである。竹田は丹波というフィールドでの実証研究により、村落社会における公的な単位として同族を把握し、新たな家論・同族論を構築する可能性は十分にあったと考えられる。しかし、長谷川のような新たな理論構築を行ないえなかったのは、ある意味で柳田の『先祖の話』の枠組みに忠実であったがゆえに新たな論の展開ができなかったのである。

墓石研究と民俗学 ―柳田以前・以後―

元興寺文化財研究所・角南聡一郎

 本発表では、「墓石」という物質文化に着目し、これらが柳田国男による日本民俗学の形成以前と以後では、どのように扱われてきたかを学史より紐解くことを目的とした。また、戦前に現在の中近世墓地の悉皆調査の方法を確立した、考古学者・坪井良平に着目し、坪井が柳田民俗学による墓制研究をどのように捉えていたかを、奈良県における金石研究の大家で民俗学者でもあった高田十郎との交流より検討した。さらに、柳田国男による民俗学とは異なる潮流として形成された、西田直二郎による京都文化史学派が、墓をどのように考えていたかなどを、戦後の諸研究や研究者によるネットワークより考察を試みた。以下、その概略を示す。

 浄土真宗の僧・浅井了意(1612〜91)による怪談集『御伽婢子』、『狗張子』の挿図に、リアリティーのある墓石が描かれている。また、松平定信が1840年に編纂した『集古十種』には、碑銘之部が編まれ、古代・中世の石造物が拓本や図とともに紹介される。19世紀に各地で編まれた名所図会には、石造物が多く描かれた。特に1840年に刊行された『新編相模国風土記稿』では、石造物の寸法や形態についても記載されている。

 近代に入ると、墓石へアプローチをするものには、金石学、考証学、建築学、考古学、民俗学、博物学などがあった。板碑、宝篋印塔、多宝塔などの他の石造物も同時期に注目され、調査研究がおこなわれていった。例えば白井光太郎による、板碑の図化と報告〔白井 1899〕が板碑研究のはじまりであったとされる。

 渋江抽斎(1805〜58)という、江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者がいる。渋江の生涯を描いた、森鴎外は、渋江抽斎の師池田京水墓の所在を調べる際に、好古社の代表であった宮崎幸麿を通じて武田信賢に問い合わせている。

 武田信賢(酔霞)は、好古社から1900〜09年にかけて刊行された、百科全書的な類纂書である『好古類纂』中で墓所集覧を記し、東京の墓地を紹介している。また、『考古』や『考古学雑誌』に近世の武士などの墓石を図入りで紹介している〔武田 1900,1910,1911〕。

 特に民俗学では早くから山中共古(1850〜1928)や本山桂川(1888〜1974)が石造物に着目した。山中の日記(1902〜23)には、調査した石造物が図により詳細に記録されている。その一部は、『東京人類学会雑誌』にて報告されたものの、図は略されている〔山中 1902〕。その後、炉辺叢書の一冊として刊行された『甲斐の落葉』では多くの石造物の図が掲載されている〔山中 1926〕。このように、柳田民俗学以外のいくつもの民俗学では石造物、墓石について多大なる関心が持たれていたことがわかる。

 柳田民俗学において、墓石がどのように位置づけられていたかをその記述から考えるため、柳田の墓石についての記述を時系列で読むと、当初は墓石という物質文化に着目していたことがわかる。しかし、1930年代からこれを有するものはほんの一部であり、ほとんどの常民の墓は無いということなどから、重視しないという考えとなっていったのである。

 これまで、坪井良平(1897〜1984)の調査方法に影響を与えたのは、天沼俊一(1876〜1947)ら建築史からの影響のみであるとされてきた。しかしながら、『未開民族の文化』〔R・U・セイス、1942、葦牙書房〕という民族誌の翻訳がある坪井は、民俗(学)に無関心であったとは考えられない。一つの可能性としては、親しく交わった、水木要太郎(1865〜1938)、高田十郎(1881〜1952)といった奈良の先人を通じて柳田民俗学を熟知していたのではないかと考えられる。ただ、前述したように柳田民俗学では墓石といった物質文化は重視されていなかった。

 高田の発刊した個人雑誌『なら』の日記に、「二月二十六日 東京ノ坪井良平氏カラ、ハジメテ来柬。」〔高田 1923:11〕とある。この頃には坪井は高田と面識を持っていたと考えられる。坪井は木津惣墓の報告の中で、この調査が考古学・民俗学の双方に人脈を持っていた高田の調査を契機としていることを示唆している〔坪井 1939:311〕。

 柳田民俗学成立以降にあっても、地方民俗学における民俗学と墓石の関係は良好である場合が多かった。特に西日本ではそれが顕著であった。京都文化史学派においても、考古学の成果に着目するなど、相互交流があった。これは両墓制研究においても考古学との交流が図られたことからも、柳田民俗学との方法論の違いは明らかである。墓石を図示して形態分類することや〔桂 1929、土井 1972〕、墓地の平面図が作成されるなど〔竹田 1971〕、物質文化研究の方法が採用されることも少なくなかったのである。

 現代社会において墓石の多様化は進行している〔内藤 2010〕。また、自然葬や納骨堂などの流行による無墓標化も増加している。葬儀や墓の要不要論が一般社会で議論されることも珍しくない時代に突入した。このことにより、逆に墓石などのモノに注目が集まっている。だからこそ長い歴史をもつ墓石研究は、社会的貢献をなすことが可能となるであろう。

民間信仰論と宗教生活学との懸隔 ―高取正男を読み直す―

ものつくり大学・土居浩

 発表題目に掲げた「民間信仰論」と「宗教生活学」とは、高取正男(1926〜1981)が『生活学ことはじめ』(講談社、1976年)巻末の座談会で用いた語彙に拠っている。同書は、高取が川添登・米山俊直と編者となり、柳田国男の『明治大正史世相篇』を継承すべく企画された共同討議を基盤とし、さらに1972年設立の日本生活学会ひいては「生活学」を世に知らしめることも目論んでいた。ここで高取は、民俗学がそもそも「内省の学」として、すなわち「最初はわれわれ常民の宗教生活を考える」べく始まったものの、「いつの間にか民間信仰論といったよそゆきの学問」になっている現状を批判的に言及している。つまり高取の認識においては、「民俗学といったもっともらしい名前だと、アカデミックな他人事の研究だけに流れかねない」のだが、そもそも民俗学には「自分も研究対象のなかに入るという観点」があり、「要するに自分自身も研究される人間」なのであり、極言すれば「自分もモルモットの一人なんだという自覚をしておく必要がある」のだ。

 高取民俗学における「内省」の重要性については、すでに先学が指摘して久しい。たとえば座談会に同席していた川添は、高取が「生活学に接近した」ことを「民俗学からはなれて寄り道したとか、学問領域を拡大したとかというのとは、ちょっと違うと思う。むしろ民俗学の本来の姿を見つめようとしたからではなかったか」と述べ、「民俗学の本道を進もうとした稀れな学者だった」とする(『高取正男著作集3』解説)。同様に高取における「内省の学」を重視する阿満利麿は、「もし内省の眼が欠如するなら、民俗学は、単なる尚古趣味、『おもちゃ箱をひっくりがえした状態(生前、高取正男が自虐的に用いていた表現)』に陥るしかないことを十二分に承知していた」と指摘し、翻って高取が「内省」によって解明した、近代的自我とは異なる「ワタクシ」意識の発見を、きわめて高く評価する(『高取正男著作集4』解説)。この川添や阿満のような評価は、20世紀末の民俗学批判を経た現在から眺めれば、典型的な紋切型とさえみなしうるが、問われるべきはなぜこのような評価が承認されるに至ったかであろう。これを解く手法そのものは、ほかならぬ高取における柳田に対する態度から、示唆を受けることができる。

 ここで高取が、柴田実(1906年生)・五来重(1908年生)・平山敏治郎(1913年生)・竹田聴洲(1916年生)などに後続する世代であったことに、注意すべきである。たとえば冒頭で触れた座談会では、柳田が書いた「明治の末から大正のはじめのころのもの」では柳田も自身を研究の対象にしているが、その後は「それがだんだん消えていきます」と指摘し、柳田の説そのものの変容を視野に入れている。また高取は1979年の新聞記事で『先祖の話』に言及し、「いまでは一般の承認をえているようにみられる」としつつも、「公刊された直後の事情を考えると、彼の説が一般に承認されるまでになった過程は、今日の時点から検討を要する部分があるように思える」との指摘(「盆の魂まつり」『高取正男著作集5』)は、『先祖の話』の受容史とでも呼ぶべき視座である。このような柳田に対する態度は、たとえば高取『神道の成立』で柳田墓制論の批判的継承に際し遺憾なく発揮されている。あるいは宮田登が高く評価した、無縁仏を祀る意味につき『先祖の話』を踏まえつつ京都の送り火を例に都市民俗として説いたこと(『高取正男著作集5』解説)などは、柳田に対する態度がその発展的継承に発揮された例であろう。

 つまりは柳田との距離感の問題で、高取における柳田『先祖の話』受容は、とくに竹田におけるそれと比較すれば、ほぼ皆無である。そもそも高取の論文集『民間信仰史の研究』(法蔵館、1982年)および『高取正男著作集』全5巻(法蔵館、1982〜83年)を通覧しても、柳田『先祖の話』についてほとんど言及がない。むしろ目立つのは、すでに川添が指摘するように、今和次郎の民家論が再三参照されることである。さらに加えるべきは、堀一郎への参照である。今にせよ堀にせよ、柳田との距離を保った人物を経由しての、柳田受容とみることもできよう。さらには今も堀もその論理展開は、高取ならば「重層構造」と表現したものであり、この点、神宮寺について「神社の境内に寺院が建てられたのは、人間の心の構造を空間化したもの」とする高取の説明を「卓説」とした谷川健一の指摘(『高取正男著作集2』解説)は、今民家論と堀宗教史との融合を示す点においても注目すべきである。

 なお当日の報告に対し、直接に高取を知る世代からじつに様々な指摘を頂戴し、改めて距離感の重要性について深い「内省」へと誘われたことを、特記しておきたい。

●コメント

愛知学院大学・林淳

 戦後に民俗学のアカデミック化が進むが、それを担ったのは、関東では東京教育大で和歌森太郎、直江広治の薫陶をうけた研究者、関西では京大文化史学の系譜をひく研究者であった。アカデミック化がすすむことで、東西のカラーのちがいは明瞭になった。和歌森の影響のもとで、宮田登、福田アジオは、近世以降の時代に限って民俗を考えようとし、古い時代に遡及しがちな旧来の民俗学を刷新した[註1]。他方、文化史学派の研究者は、関東の研究者が沖縄に日本の古代を見ようとした時代に、それに距離をとった。彼らにしてみれば、古代は畿内にあったのであり、畿内の民俗を遡れば、中世はおろか、古代にさかのぼると見られるものもあったからであろう。

 平山敏治郎、五来重が中世の文献史料を読み、竹田聴洲が近世寺院史料を漁って、民俗信仰を解明しようとした。高取正男の『神道の成立』は、奈良時代の神祇祭祀を扱い、日本人の禁忌意識の起源に迫ろうとした。京都の文化史学の研究者は、あくまで歴史学の枠の中で民俗学を扱ったところに特徴があった。つぎに東西の民俗学のちがいを前提にして、柳田祖霊神学について考えてみたい。

 (1) 京大の集中講義に来たのは、柳田のみならず、折口信夫、宇野円空、原田敏明などもいたが、柳田のみが西田直二郎門下に影響を与えたように見えるが、なぜか。京都において折口学が影響の痕跡を残していないように私には思われるが、もしそれが正しいとすれば、なぜか。柳田の著作の中でも、『先祖の話』の影響がきわだっていて、『海上の道』などは言及されることは少ない。とすれば京都の民俗学者たちが、民俗学、あるいは柳田の著作に対して選択的受容を行っていた可能性は十分にある。そこが議論されるべきだ。

 (2) 文化史学派の民俗学は、おおむね宗教史研究になったと言ってよい。五来、竹田、柴田実、高取の学風は、仏教を無視はしない宗教史研究であって、柳田門下が追求した「民間信仰」研究と一線を画している。五来が提起した仏教民俗学[註2]、竹田が着手した近世仏教の研究からすると、仏教と民俗のつながりは歴史的に展開したものであって、分離はできない。京都において柳田祖霊神学は、仏教史とのつながりのなかで読み返されたと一応は言えるであろう。

 (3) 宮田、福田も、京都文化史学派の民俗学者も、歴史学的な方法を使って歴史史料を扱った点は共通している。宮田、福田が近世以降に自己限定し、京都の民俗学者はおもに中世を扱ったが、両者は、ともに柳田、折口の固有信仰論を克服しようとした。この点が、戦後のアカデミック民俗学の最大の功績であった。

《註》

  1. 林淳 2010 「宮田登と民俗学の変貌」『戦後知の可能性』山川出版社
  2. 林淳 2008 「五来重と仏教民俗学の構想」『宗教民俗研究』18

●コメント

佛教大学・大谷栄一

(1) 「仏教」理解の問題

 土居氏の報告の中で、日本人の仏教受容に関する高取正男の「重層構造」理解が指摘されていた。例えば、近代以降の日本仏教の存立構造を見ても、「伝統仏教」「近代仏教」「民俗仏教」「仏教系新宗教」のような重層性をみることができる。

 では、浄土宗の僧籍をもった竹田聴洲の場合、「仏教」をどのように把握していたのだろうか。『佛教史學』第5巻第3・4号(1956年)所収の「民間仏教の研究と民俗学」では「民間仏教」が、1957年の『祖先崇拝』(平楽寺書店)では「日本常民仏教」が用いられている。また、1969年に提出された学位請求論文のタイトルは、「常民仏教と祖先信仰」だった。その博士論文が1971年に刊行されるが、その際、『民俗仏教と祖先信仰』と改題されている。これらのタームの変遷には、日本人の仏教受容に関する竹田の理解のあり方が示唆されているのではないか。こうした竹田の「仏教」理解を先に述べた近代日本仏教の重層性や近代以降の神仏関係などに着目すると、どのような知見を得ることができるのだろうか。

(2) 方法論と隣接分野との関係

 林淳氏は、五来重の仏教民俗学の特徴のひとつとして、「中世の仏教史・文化史・芸能史を対象として、文献史学の方法と民俗学の方法を併用したところに五来の本領があった」と指摘している(「五来重と仏教民俗学」『宗教民俗研究』8号、2008年)。

 では、竹田の方法論はどのような特徴なのだろうか。『村落同族祭祀の研究』(吉川弘文館、1977年)の序章で、「本書に収められたモノグラフはすべてが現行習俗のみでなく、前代におけるその推移の跡をできるだけ現地調査によって遡及することに意を注いでいる」と、竹田は述べている。実証性を担保する手段として、フィールドワークと文書記録の探査が用いられているわけである。また、大野氏の報告で、竹田が柳田と有賀の論をつなぐ研究を意識していたことが触れられていた。岸田史生氏も、竹田の方法論として、「京都大学文学部国史研究室に脈々と受け継がれてきた文化史学をもとに柳田民俗学や有賀社会学の両者を併用して独自の祖先信仰論を展開し」たことを指摘している(「竹田聴洲の民俗学とその思想的背景」『宗教民俗論の展開と課題』法蔵館、2002年)。いわば、竹田が文献史学、フィールドワーク、民俗学、社会学というさまざまな学問領域の方法や調査手法を用いていたことがわかる。菊地氏の報告の中で、民俗学と隣接分野との関係が言及されていたが、こうした竹田の領域横断的な方法論をどのように評価することができるのだろうか、また、どのように継承できるのだろうか。

●コメント

早稲田大学・渡部圭一

 菊地暁氏がつとに訴えているように、これまで局地的な方法論交替劇として描かれてきた民俗学史には大幅な相対化・複線化が必要である。その見通しは、方法論として声高に主張されたものや、抽象化された論争のいきさつを辿ることより、具体的な研究実践のなかに明に暗に表われる方法を読み解いていく作業の進捗如何にかかっている。

 そのひとつの手がかりは、文献史料学の見地からの学史の複線的理解にある。聞き書きを主とし、文献史料の利用を忌避するという、民俗学的方法の自己証明として広く知られた方法論議のかたわらでは、文字化されたテクストを縦横に用いていく研究実践が存在した(菊地 2005「主な登場人物―京都で柳田国男と民俗学を考えてみる―」『柳田国男研究論集』4、19〜20ページなど)。文献史料が豊富な京都、あるいは近畿・西日本は、これを考える上で好個のフィールドである。ただ史料とは、あくまで現地で筆写・撮影され、あるいは史料集として刊行されてはじめて利用可能になる。研究者がいかなる史料環境におかれていたか、それ自体が一種の歴史的な考察の俎上にのぼせられてよい。

 史料とモノと景観の取り扱いという点では、竹田聴洲の墓制研究の方法はことに個性的である。角南報告が対比してみせたように、それはかたちあるモノや銘文を排除していく柳田民俗学との間に相当な開きがある。ところが一方、大野報告でも述べられたように、竹田の先祖論・同族論が依拠する概念は先祖祭祀より抽象度の高い祖先崇拝に近く、そこで引用される『先祖の話』は柳田以上に理念化されている。竹田の葛藤の深まり、そして文章の晦渋さが生まれる理由もこのあたりにありそうだ。

 たとえば近世の石塔が個別死者の銘文をもつ事実をまえにした竹田が、「(祖霊の)集合的な性格を解体したともいえよう」(「両墓制村落における詣り墓の年輪」〔1966/68〜竹田著作集3:280〕)と述べる点には、祖霊化モデルへの一方的な回収へのためらいが透けてみえる。『先祖の話』の先鋭的な一読者として、ある時期には「埋め墓が死霊の祭地なるに対し、詣り墓は祖霊の祭地に外ならぬ」(『祖先崇拝』〔1957〜竹田著作集1957:155〕)などと断言していたころからの微妙な転調を読みとってよいであろうか。

 竹田がその代表作のタイトルに冠した年輪≠ニいう一見奇妙なことばも、やはり個性に富んでいる。石塔の累積体としての墓地空間の過去=年輪を解読しようとするその意欲は、考古学的な石塔の型式分類による変遷論とはべつの可能性を予告している。ここではまた固有信仰論アプローチを放棄した(両)墓制論が、実質的に先祖祭祀研究から撤退したあと、祖先祭祀の近世的構成の問題が放置されたままであることにも思い至らざるをえない。信仰の問題とモノとの間をどう埋めていくか、竹田の葛藤はいまもアクチュアルな課題でありうる。