第860回談話会要旨(2011年12月3日=震災の記憶と語り―民俗の再生へむけて―)

※『日本民俗学』270号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。

二つの津波と遠野 ―明治三陸地震津波と東日本大震災から―

前川さおり

 柳田國男の『遠野物語』の舞台・岩手県遠野市は、北上高地の中央に位置し、内陸と三陸沿岸を結ぶ交通の要衝として栄えたところである。このような地理的有利さと歴史に培われた三陸とのつながりによって、東日本大震災直後から災害後方支援の一大拠点となっている。

 遠野市立博物館職員も当初は緊急的な人道支援にあたってきたが、陸前高田市立博物館をはじめとする三陸の図書館・博物館の甚大な被害が明らかになるにつれ、地元職員と協力して文化財レスキューを行うようになった。三陸には、国登録有形民俗文化財の「陸前高田の漁撈用具」2,045点をはじめとする貴重な有形民俗文化財が多数あり、被災地の図書館・博物館職員の多くも津波の犠牲となったので、彼らが大切に守ってきた「ふるさとの宝」を残したい一心でもあった。当初は、他の民家から流れ込んできたガレキと博物館資料の選別は難しいのではないかと思っていたが、容易に見分けることができた。博物館資料の一つ一つにデータが記され防水処理された資料タグや注記があり、これを見て貴重な文化財を救ったのは、地元職員たちの日常の地道な仕事の成果だったのだと、強く印象に残った。救出された資料は、市内の廃校や全国各地の博物館や大学、研究機関に分散され、洗浄と修復作業が続いている。

 また遠野市立博物館で7月に文化財レスキュー展を開催した。文化財レスキューという活動があること、そして文化財も救うべき対象であることを、被災地の方々や災害ボランティアの方々に少しでも早く知ってもらうためであった。

 私自身が三陸に文化財レスキューに赴くたびに、ある過去の歴史と一人の遠野人の姿が思い浮かんで仕方がなかった。それは明治三陸津波と遠野の起業家・山奈宗真である。

 明治29(1896)年6月15日、約2万2千人の犠牲者を出した明治三陸地震津波が発生し、この時も遠野は災害支援の一大拠点となって、東日本大震災とほぼ同じような動きをしていたようである。

 山奈宗真(1847〜1909)は、遠野南部家の家臣の子として生まれた。遠野周辺各地に牧場を開き、アメリカから乳牛を輸入・改良するなど牛馬の育成につとめた。また養蚕を奨励して遠野製糸場を設立し、私設農業試験所でトマト・セロリなどの洋種野菜の栽培などを行った。明治時代の殖産興業の指導者として知られる山奈であるが、49歳の時に、岩手県に津波被害調査員になることを志願し、陸前高田から洋野町種市まで単身で調査を行い、浸水図や新しいまちづくり、短期的な復旧策、長期的な復興策を見すえた調査記録を残した。

 明治43年に出版された柳田國男の『遠野物語』第99話には明治三陸地震津波の話が出てくる。『遠野物語』の話者・佐々木喜善の大叔父にあたる「福二」という人は、山田町の田ノ浜に婿にいっていた。津波で家を流され、妻と子を失い、仮小屋をかけて生き残った子ども2人を育てながら暮らしていた。被災1年後の夏の初めの月夜に、妻のまぼろしと出会う。妻は結婚前に心通わせ、同じく津波で死んだ男と渚を歩いていた。呼び止めると妻は振り返り、この男と夫婦になったという。福二は、子どもは可愛くはないのかと問うと、妻は顔色をかえて泣くが、やがて男とともに立ち去り消えていく。福二は夜明けまで道中に立ちつくし、その後、長く病んでいたという。

 この話は、これまで幽霊譚ととらえられてきた。しかし一人の被災者の「心の物語」と捉えなおすことができるのではないかと震災を経て初めて気づいた。福二という男は、仮設住宅で、男手ひとつで必死に子どもを育てている。心身ともに疲れもたまってくる頃であったろう。心に区切りをつけなければと思いながら、それができず葛藤の中で立ちすくんでしまった。長く患ったという病は、災害による精神的なストレスによる病ではなかったのだろうか。この話は、遠野と三陸の精神的な近さと、被災者の悲しみと苦しみ、葛藤といった心のありさまを語るという遠野らしい繊細な記憶のあり方を示している。

 明治の津波の記憶は、佐々木喜善によって血の通った物語として「語られ」、それが柳田國男によって「記録」され、『遠野物語』という「モノ」となって残された。また遠野の起業家・山奈宗真は、三陸の人々が「語る」惨状を聞き、自らの目で見て「記録」し、帝室図書館に「モノ」となって残されていた。このように「語り」「記録」「モノ」が一体になって残されたとき、津波の記憶は、100年以上にわたって伝えられてきたのである。このことは、震災の記憶をどのように伝えるか考える上で大きな示唆を与えているといえよう。

津波常襲地の生活文化

川島 秀一

 三陸沿岸の歴史や文化は津波を抜きにしては語られないとされてきたが、今回の東日本大震災においては、なおさらこの地方を「津波常襲地」として意識化されることになった。あらためて、津波を方法化して三陸沿岸を見直してみると、家の建て方や集落の構成の仕方から始まって、「津波文化」と名付けてもよいような事象が浮き彫りにされてきた。

 三陸地方は近代以降、今回を入れて4度の大きな津波に襲われている。明治29年(1896)の三陸大津波、昭和8年(1933)の三陸津波、昭和35年(1960)のチリ津波、そして今回の大津波である。

 津波の規模からいえば、今回の大津波は、明治29年や昭和8年を越えるものであるが、過去の津波との比較、その記録や復興をどのようにやってきたかという歴史と照らし合わせようとするならば、今回は昭和8年の津波を一応の指標として定めてよいのではないかと思われる。

 たとえば、昭和8年に朝日新聞社が集めた義捐金によって各浜々に建立させた「津波記念碑」は、岩手県においては、津波浸水線上に建てさせており、その建立場所から下は津波常襲地であり、家を建てさせないように警告し、あるいは津波が来襲したときに、この碑のところまで逃げれば、少なくとも安全であることを示す、避難の目印ともしたようである。今回の被災した浜々を回ってみると、その意図が明らかであり、昭和8年の津波記念碑を境に、明暗がはっきりと分かれるようなところが少なくない。

 一方で宮城県では、「津波記念館」を集落ごとに高台に作らせ、これは津波が来たときの避難場所であるとともに、常には公民館のような役割をもたせ、おそらく、防災の教育施設としても利用したものと思われる。

 これらは太平洋戦争が激しくなるとともに、自然と忘れられてきたが、岩手県では、その頃まで毎年3月3日の「津波記念日」に、被災地の小学校で「津波の歌」と呼ばれるものを小学生に歌わせていた。その歌詞の「大津波くぐりてめげぬ雄心もて いざ追い進み参い登らまし」という文字を、津波記念碑に刻んでいるところもある。

 ところで、明治29年の三陸大津波には、「津波記念碑」だけでなく、「津波供養碑」も多く建てられた。昭和8年には朝日新聞社の尽力もあって、全体では「供養碑」よりも「記念碑」の方が多く建てられている。

 「記念碑」と「供養碑」は、その意味合いが若干異なる。津波「記念碑」の場合は、過去の事実を伝えるとともに、目的は今後の津波に対して安全を確保するための警鐘を鳴らすことに意味があった。特に昭和8年の場合はそれが強調されて建てられている。つまり、それは未来へ向けてのメッセージを発信している。それに対して、津波「供養碑」の場合は、あくまで津波で亡くなった過去の人たちへ向けられている。「供養」は一過性のものではないので、何度も故人に対して行なわれる。その意味では、直線的な時間としてだけではなく、年中行事や年忌のように、回帰的な時間の中で行なわれているといってもよい。

 また、津波「記念碑」や津波「供養碑」を建立することになった「津波」そのものも、直線的な時間上で起こるものでありながら、周期は未知数ではあるが、また再び必ず来襲するという意味では回帰的な時間をもった事象である。直線的であり回帰的であるという両義性をもった、やっかいな対象でもあることが、「記念碑」も「供養碑」も建てられ、あるいはそれらの両方の意味を与えられて、村の中にひっそりと建っていたのが実状であったと思われる。

 また、あえて人工的な記念碑や供養碑を建てずに、大津波で寄り上がった石を「津波石」として名づけ、それを「津波記念石」としたり、「龍神」として祀っている例が見受けられる。「津波石」は全国的に見ても、三陸沿岸と沖縄の宮古島地方と八重山地方に多く見られる。沖縄の場合は、明和8年(1778)の大津波で上がった「津波石」が目立っており、その石が聖地として祀られたり、伝説のスポットになったり、あるいは宗教的な儀礼に使われたり、実用的にも使われ、最近では観光スポットにもなっている。「津波石」を神からの贈り物として、除けないでいる島もある。

 津波は確かに避けることができたら避けたい事象であるが、海と人間との関わりかたの一つのかたちとして捉えていかなければならないものと思われる。当初から津波も含めて様々なリスクを承知で、海の傍らに住み、漁に出かけている人々の海への対し方を前提にしなければ、本当の復興はあり得ないと思われる。

 災害列島に住んでいる日本人の自然観や生死観、災害観などを、もう一度、見直す好機を迎えていると思われる。

地域崩壊で問われる「民俗」の意味 ―原発事故であぶり出されるもの―

大山 孝正

 本発表では、未曾有の大震災と原発事故による地域崩壊という絶望的状況の中で、地域に伝わってきた「民俗」とどのように向き合っていけばよいか、さらには今後、長期間にわたる避難生活の中でこの地域の「民俗」がどのような意味を持ち得るのか、それを調査・記録する者の役割などについても述べたい。

 巨大地震と大津波に加えて、福島県に深刻な被害をもたらしたのが、東京電力福島第一原子力発電所で発生した放射能漏れ事故である。この原発事故による周辺地域住民の一斉避難は、わずか数日から一週間の出来事であった。福島県内の道路は避難する車やバスで大渋滞し、避難所は避難民で溢れ返り、携帯電話もほとんどつながらず、原発に関する情報も乏しい中で、大混乱に陥った。

 その後に、発表者が聞き取り調査を行った中では、県内外の身内・親戚などを頼って半年間に10回以上も避難先を転々とした住民もいた。土地・住居・仕事などの生活基盤を失った住民が各地を移動し続ける状況は、現在も続く。先行きが見えない状況の中で、避難住民の多くは終の棲家を見出すことすらできず、故郷に対する強い思いや、喪失感にさいなまれ、避難先で明るい気持ちで過ごしている人は皆無に近いのが現状である。

 こうした絶望的状況下で、地域に受け継がれてきた伝統行事や民俗芸能を避難先でも継承していこうとする動きが、わずかずつだが始まっている。例えば、浪江町請戸地区の田植踊は、全国各地に避難している踊り子が、二本松市に集まって練習を再開し、2011年8月21日にいわき市で披露された。また、富岡町上手岡地区に伝承される「麓山の火祭り」は、町民の一部が避難した安達郡大玉村で一部が実施された。このように、被災地・避難地域の民俗文化財が、避難先で一部でも実施されることは、散り散りになった地域住民の貴重な再会の場ともなり、先行きの見えない避難生活を送る住民にとって、大きな励み、心の支えとなっているのは事実である。

 東日本大震災と原発事故、その後に起こった様々な出来事は、我々に「民俗とは何か」という根本的な問いを突きつけた。そもそも「民俗」の担い手は人であり、人から人へと受け継がれる。また、「民俗」は土地に根差しており、その土地で暮らす人々の連帯によって支えられる。特に今回の原発事故は、その土地を人々から奪い、人々の連帯を破壊したという点で、まさに過去に前例のない規模で「民俗」の維持・継承に最も困難な状況を生み出していると言える。

 その中で、地域の連帯を維持していくために散り散りになった住民同士が互いに連絡を取り合おうとし始めていることは、わずかな希望の光となっている。しかしながら、その努力は並大抵のものでなく、現時点では、楽観的な観測を持って安易に見るべきではないと考える。発表者としては、当面は、わずかずつでも地域の「記憶」を「記録」に変換する作業に手を染めていきたいと考えている。そのことが、今回の未曾有の大震災と原発事故で引き裂かれた人々の心の支えに、ほんの少しでもなればよいという思いがあるからである。