第859回談話会要旨(2011年11月13日=柳田國男の超克と継承:没後50年の今)

※『日本民俗学』269号より転載しました。引用等につきましては「日本民俗学会ウェブサイトご利用上の注意」をご確認ください。

柳田國男と/あるいは人類学 ―レヴィ=ストロースの人類学的視点による読解―

小田 亮

 この発表の趣旨は、柳田國男の民俗学を、レヴィ=ストロースとの類似性によって理解することを試みるということにある。柳田國男とレヴィ=ストロースの類似性として、とりあえず二つの視点を取り上げる。ひとつは、人類学のフィールドワークの営みから作り上げられた「真正性の水準」という視点、そしてもう一つは、「反歴史主義」という視点である。この二つの視点は、人類学的視点でもある。

 レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」とは、「5000の人びとが作る社会は、500の人びとの作る社会と同じではない」というシンプルな区別を指す。前者の「非真正な社会(まがいものらしさを帯びた社会)」では、「他者との関係の大部分は、文字で書かれた記録を手がかりに、間接的に再構成されたもの」となる。レヴィ=ストロースは日本での講演のなかで、「村であれ都市であれ、ごくふつうの人びと――日本の有名な人類学者、柳田国男が『常民』と呼んだ人びと――の社会生活が、まず何よりも個人的つながりや家族の絆、近所づきあいのうえに成り立っているかぎり、ひとことで言えば、口承伝承の生き続ける小さな伝統的世界でありつづけるかぎり、それは人類学の研究対象となりうる」(『レヴィ=ストロース講義』平凡社ライブラリー、2005年)と述べている。「口承伝承の生き続ける小さな伝統的世界」こそが、レヴィ=ストロースのいう「真正な社会(ほんものらしさのある社会)」である。このようなレヴィ=ストロースの理解からすれば、「常民」とは、人びとが「真正な社会」に生きているときのあり方であるという見方が生まれるだろう。

 柳田國男に「真正性の水準」の区別があったことは、『口承文芸史考』における「口と耳の文学」と「手と眼の文学」との関係の議論によく現われている。柳田は、よく言われるように「口と耳の文学」が「手と眼の文学」によって衰退させられたことを嘆いたわけではなかった。「口と耳の文学」と「手と眼の文学」のあいだに交流があった状況(口承が生きていた真正な社会)から、印刷というメディア技術によって両者が隔絶し、「定本の権威が専横」となった非真正な社会への変化について言っていたのである。

 そのことは、柳田の「反歴史主義的な歴史学」としての民俗学の構想と密接に関連している。歴史学としての民俗学は、ただ単に文字資料のない空白部分を口承伝承や「もの」の収集によって埋めていくものではない。それでは、柳田の批判していた文献史学の補助学問でしかないことになろう。

 レヴィ=ストロースと柳田はともに、直線的な進歩を追った編年的な歴史の再構成を目ざすような歴史主義的な歴史学の最も透徹した批判者であった。歴史主義的な歴史学とは、「客観的歴史的事実」というものがあり、歴史家は、高みに立ってそれらの事実の全体を見通すことができ、「歴史の進歩」といった単線的な時間の秩序のなかに個々の歴史的事実を位置づけて意味づけることができると想定している文献史学を指す。つまり、文献史学とは、非真正な社会の様相で捉えた歴史学であり、レヴィ=ストロースや柳田のいう歴史とは、真正な社会の様相で捉えた歴史である。それは革命のような一回性の出来事を要因とする変化を時間軸上に並べたものではなく、過去に何十億回と繰り返されてきた日常的かつ集合的な慣習の無意識的な変遷であり、しかも同一の地域で同じ人々が新旧の慣習を同時に実践している、いわば「重ね描き」された歴史である。

 このように再構成する歴史そのものが歴史主義的な歴史学とは根本的に異なるものであるとするならば、柳田國男の唱えた「重出立証法」の評価も変える必要があるだろう。というのも、従来の批判は、重出立証法が単線的で編年的な歴史(歴史主義的な歴史)の再構成を目指すものという誤解に根差しているからである。レヴィ=ストロースのいう真正な社会における変化は、新しいものを採りいれることを妨げるものではなく、かつそれと同時に、古いものから新しいものへと一度に単線的に変化するものでもない。それは、非真正な社会における単線的な変化に抗するように働く歴史である。

 歴史主義的な歴史学と柳田の目指す歴史学は目的も異なっている。歴史主義的な歴史学は、社会が普遍的な進歩のどの段階に位置づけられるかを、全体を見通したうえで判定することが目的となる。そこでの比較は、社会がどれくらい遅れているか進んでいるかを測定するためのものであり、そこにこそ後進国ナショナリズムが生まれる。柳田の目指していた学問救世は、そのようなナショナリズムとは無縁のものだった。その目的は、親々から伝承してきた慣習をどのように継承し、どのように改良していくかということの判断材料をそろえるために、伝承という「年代を超えた縦の結合体」の基盤を重層的に捉えようとするものだったのである。

柳田国男の民俗学と沖縄

赤嶺 政信

柳田国男の沖縄認識についての理解

 『柳田国男の民俗学』の中で福田アジオ氏は、「柳田以降民俗学の世界では『沖縄は日本の古い分家』であり、日本全体の最も古い姿を今に残しているという理解が一つの前提、あるいは一つの常識として通用することとなった」〔76〕と述べているが、この見解は柳田の沖縄認識についての従来の理解にほぼ共通して見られるものである。

 たしかに初期の柳田のテキストには、たとえば大正9年の「阿遅摩佐の島」に「我々が大切に思う大和島根の今日の信仰から、中代に政治や文学の与えた感化と変動とを除き去ってみたならば、こうもあったろうかと思う節々が、いろいろあの島には保存せられてあります」〔『文庫全集1』501〕とあるように、日本文化の古形を沖縄に見いだす姿勢が窺える。しかし、昭和以降の柳田のテキストにはそれは認められず、次にみるように、柳田が沖縄の民俗文化の独自の変化についても十分注意を向けていたことは明らかである。

沖縄文化の独自の変化への言及

 昭和12年の「玉依彦の問題」には、女性の霊力と家の継承との関連について言及した以下の一節がみえる。「この研究のために何よりも大切になって来るのは、中世以後に社会事情を異にし、相互独自の展開を遂げたかと思う双方[日琉]の家族制の比較、沖縄でいうならば祝女・神人の職分の継承法、ことにヲナリ神の信仰の衰えまた変って来た経路を明らかにすることである」〔『文庫全集11』54〕。また、昭和22年の『沖縄文化叢説』の「編纂者の言葉」では、「民族固有の信仰の展開して今に至つた過程などは、あまりにも幽玄である為に、まだ定説には達し得なかつたが、それでも年来の不審のやゝ明らかになつたことが幾つか有る。(略)同じ一つの国語でもとあつたものでも、時や環境のくさぐさの条件、稀には単なる偶然の刺衝によつてでも、なほ斯くの如き大きな変異を来すものだといふことを、彼我同時に学び知つて(略)」と述べている。

 さらに、昭和27年に民俗学研究所が南島総合調査を実施する際に柳田が示した指針には、「民俗学検索は一つの準備、壱岐、対馬、甑島、八丈島などとの比較、単なる島なるが故の特徴や類似もあると思われる。あまりに民族の親近性に引きつけるのは用心しなければならない」[大藤時彦「日本民俗学における沖縄研究史」『沖縄の社会と宗教』14〜15]が含まれ、また、昭和28年の「南島研究の目途」では、「日本の古代信仰と沖縄の現在の信仰の違いをみて、似ていないのは当り前で、中間の過程を考えねばならぬことになる」と述べている〔『新全集32』424〕。

 柳田の沖縄認識に変化が生じたことがわかるが、そのことに関してはつぎの『郷土生活の研究法』の一節が参考になる。「その[ヨーロッパの学問の影響の]結果がフォクロアはすなわち古代信仰の明であるように速断する者を一方に生じ、(略)その発頭人は何を隠そう、私などもまたその一人であった」〔『文庫全集28』89〕。

『海上の道』をめぐって

 『沖縄文化叢説』の「編纂者の言葉」の中に「所謂三十六島の古来の住民が、大和島根に家居した人々と、根原に於て一つだといふことが決定しないと、種々たる推論は前提を欠くことになるのだが、この点は久しく心付かれ、又八九分通りまでは、もはや立証せられても居る」とあるが、それを受けて伊藤幹治氏は、「ここで柳田は、日琉同祖論が『八、九分通りまで』立証されているが、まだ仮定の段階にとどまっていることを謙虚に認めている。戦後、柳田が意欲的に取り組んだ琉球研究は、残りの『一、二分』の部分を埋まるための試みであった。その結晶が、彼の晩年の雄篇『海上の道』であった」と述べている〔『柳田国男と文化ナショナリズム』157〕。

 最後の著書である『海上の道』は柳田民俗学の到達点という理解は少なくないが、鎌田久子氏の証言によれば、昭和34年の沖縄調査の際に柳田の紹介で面会した仲宗根政善氏が、「柳田先生に沖縄関係の著書を出して欲しい」と語り、そのことを柳田に伝えたことが契機になり、鎌田氏自身が目次作りをして『海上の道』が誕生したという〔『日本民俗学』229:146〕。さらに、柳田が、「海上の道」『故郷七十年』『稲の日本史』などを「民俗学と思われては困る。僕は自分の好きな研究をしているのだ」と語っていたという千葉徳爾氏の証言〔『民俗学のこころ』17〕も重要であり、柳田民俗学の到達点が『海上の道』という理解は訂正される必要があるだろう。

 この点を踏まえて『海上の道』所収の「海上の道」以外の論考に目を向けると、「海神宮考」で「土地ごとの沿革を念頭におかずに、ただ表面に現れたものを代表として、双方の異同を論ずることの危険は、お互いに十分警戒しなければならぬ」〔『文庫全集1』87〕と述べているように、「土地ごとの沿革(変化)」に注意を向けている点は各論考に一貫して認められると考えている。

柳田國男と折口信夫 ―民俗学の相乗と対立―

小川 直之

 発表は、「柳田没後50年、今なぜ『柳田』なのか」という問いから始め、一「柳田國男の折口信夫宛書簡」、二「南方熊楠との往復書簡から」、三「折口信夫の柳田理解」、四「柳田國男『踊の今と昔』『海南小記』から折口『まれびと』論へ」、五「『依坐』(柳田國男)と『依代』(折口信夫)」という内容で行った。以下、その概要を記しておく。

 

 昭和37年8月8日の柳田國男没後から50年を迎え、こうした企画が談話会で催されるにあたり、まず問うておく必要があるのは、今なぜ「柳田」なのかということである。それは現在の日本民俗学が、柳田國男の学問を一つの起点としていることは確かだが、その柳田が死去して50年という節目となるからという回顧だけでは学術に何ら進展をもたらすことはないからである。学術的なディシプリンの存在意義を、それぞれの研究の持続性に求めるなら、学史の検証の必要性はある必然をもつといえよう。それはいうまでもなく、「現代」という社会状況は通時的に一様であるということはあり得なく、それぞれの時代によって異なるからという認識に基づいている。

 こうした認識に立って柳田國男の学問形成を見ていくと、重要となるのは大正後期から昭和初期に進めた民間伝承論の体系化、具体的には民間伝承研究の目的ならびに民間伝承の研究方法の明確化である。大正12年9月1日の関東大震災後には震災手形の不良債権化と金融不安が起こり、大正14年には治安維持法、普通選挙法の公布、昭和2年には金融恐慌、昭和3年には済南事件、山東出兵、張作霖爆殺事件、昭和4年には世界恐慌による農業恐慌という日本の経済的・政治的な重大局面があり、柳田はこうした中で民間伝承論の体系化を進めた。その意図がどこにあったのかは、昭和5年6月29日消印の折口信夫宛の書簡と、これに先立つ明治末から大正初期の南方熊楠との往復書簡からうかがうことができる。

 昭和5年の折口への書簡では、折口の『古代研究』民俗学篇2発刊(昭和5年6月刊)への祝意、子女の結婚祝いへの謝意を述べる一方、『古代研究』民俗学篇2の「追ひ書き」でいう折口の学問的な方向性は自分とは異なることをいい、昭和4年7月の折口等による民俗学会発行の『民俗学』への痛烈な批判を行っている。折口との方向性の違いは、折口が自分の研究を「民族学的民俗学」というのに対し、柳田はあくまで日本研究であること、そして『民俗学』への批判では、「フォクロア」の名は民間伝承の資料化の方法であるという。「フォクロアの名はやはり順当に専ら此が採集と標本作成に任じ次に又其民間の伝承を解説せんとする者共に与へなければなるまじ」というのであり、この時点では柳田の考える民間伝承論は史学の一部、あるいは郷土研究の方法で、これを民俗学というかについてはためらいがあったと思われる。

 こうした柳田の民間伝承研究への歩みは、明治44年から大正6年までの南方との往復書簡にあらわれている。明治45年2月の柳田書簡では「フォルクロア」の学会と雑誌は「日本田舎の生活状態を研究」するものだとし、これが後の『郷土研究』である。そして、大正2年にはこの学会と雑誌発行は「文章報国の事業」だといい、「小生は十五年来の学問、主として日本の田園経済を講明するにあり」と自己の来歴を説明する。大正3年5月には南方から「内地のことについてのみ研究されたし」というアドバイスを受けている。同年に柳田は「平民はいかに生活するか」「いかに生活し来たったか」を記述して世論の前提を確実にするというフォークロア=民間伝承研究の目的をいうのであり、これを「文章報国」としている。このような柳田の言説からは、明治41年までの農政学からその後の郷土研究、民間伝承への視点の転換は、牛島史彦(『柳田國男の国民農業論』)が指摘するように転向ではなく農政学から続く一貫した学問的な志であったといえる。そして、こうした志の一つの帰結が大正時代末・昭和初期の経済的政治的混迷期における民間伝承論の体系化であったと考えられる。

 昭和5年の折口宛書簡の背景には如上のような経緯があるが、柳田と折口の学問的な連鎖と相乗は、折口の「まれびと」論や「依代」論に顕著に見ることができる。柳田の明治44年の「踊の今と昔」と大正10年の「海南小記」(二色人)は、「まれびと」への視点とその理論化に影響を与えている。また、柳田の大正2年4月「巫女考」、同7月「オシラ神」、大正3年6月「片葉蘆考」で扱っている狂人の竹枝、玉串と「神の依坐」「神代」の解釈は、折口の「髯籠の話」での「依代」「招代」の理論化に影響を与えていると考えられる。大正4年には折口、柳田、南方が三つどもえとなって依代について論じており、大正初期から柳田と折口は互いに、民間伝承に基づく日本文化論を交錯させながら進めている。柳田は農政学を、そして折口は国文学を、ともに民間伝承からの視点によって越境し、新しい学問を構築しているのである。