談話会要旨-第855回(2010年度 民俗学関係卒業論文発表会)

嫁入り道具の変遷と精神史―モノからみた民俗史―

丸山 志保(武蔵大学)

 本論文では、埼玉県三郷市における民俗調査の結果と、自治体史編纂時に作成された調査カード、さらに結婚を特集した雑誌の分析をもとに、大正期から現代までの嫁入り道具の変遷と、嫁の親族や嫁自身がその嫁入り道具に込めた思いについて考察した。なお、今回は第二次世界大戦後から現代までを中心に発表する。

 第二次世界大戦後と高度経済成長期における嫁入り道具は、着物・鏡台・箪笥・布団・自転車などであった。昭和後期(一九七五年以降)から自動車やベッドも嫁入り道具となった。どの時代においても、衣と住生活に関わる道具が嫁入り道具の大半を占め、食に関する道具はあまりみられない傾向にあった。嫁入り婚、恋愛結婚というように婚姻形態が異なっていても、結婚後は婿の実家で生活を送る嫁が多かった。

 調査では嫁入り道具の変遷に大きな変化はみられなかったが、雑誌では高度経済成長期以降、冷蔵庫・洗濯機といった電化製品や、アクセサリー・運転免許証などが持参され始め、嫁入り道具の多様化がうかがえる。雑誌で自分の嫁入り道具を紹介する嫁たちは、食に関する道具も何点か持参していた。その理由は結婚後、どちらの親とも別居し、新婚夫婦二人で生活し始めたことで、食器や調理器具といった食に関する道具の必要性が生じたためだと考えられる。

 嫁入り道具に込められた思いについて、持参した嫁入り道具が保存・廃棄のどちらに該当するかという点から考察した。調査の結果、廃棄された道具には思いがみられなかったが、保存された嫁入り道具には、嫁の思いが込められている道具、嫁とその道具を用意した親の思いの両方が込められている道具があることを確認した。

 嫁入り婚から恋愛結婚へと婚姻形態が変化し、時代を経るにつれて、様々なものが嫁入り道具とみなされるようになった。しかし、嫁入り道具を持参するという概念や、思いが込められた嫁入り道具が存在することは、普遍的であることがわかった。

定期市からみた『姑』―新潟県加茂市の事例より―

坂井 かおり(新潟大学)

 本研究では定期市に出店する農家の姑(息子の嫁と同居している女性)の立場や意識の変化の有様を考察した。調査は新潟県加茂市の定期市を手掛かりにした。定期市には60代以上の農家の女性が多く出店し、自家で収穫した青果物を販売している。その中でも姑に聞き書きを行った。

 昭和20〜30年代前半まで姑は生計維持のために定期市に出店し、売上金は家の収入にしていた。その後農業の近代化に伴い農業に必要な労働力が減少し、農外就労に従事する家族員が現れるようになった。農外就労による安定した収入により、定期市での売上金を生活費にする必要性は薄れていった。このことにより姑は、家族(生活費稼ぎ)のために定期市に出店する立場から自分の小遣い稼ぎのために出店する立場へ変化したといえる。

 一方、農外就労に励む嫁と同居する姑は嫁に指図する立場を失った。昭和20年代に加茂市の農家に嫁いだ女性は、姑の指示に従い農業や家事に取り組んだ。だがそれらの女性が姑になり始める昭和40年代には、農業以外の職を持つ嫁が見られるようになった。そのため次世代に農業をさせる意識が姑にはなくなり、それは嫁に定期市での出店場所を継がせなくなったことからもうかがえる。それまで姑は、自身が出店することが困難だと判断した際に嫁に出店場所を譲ってきた。しかし昭和40年代以降、嫁は農外就労に従事しているため出店する暇がない、売上金がなくても生活が成り立つため定期市に出店する必要はないという理由から、嫁に場所を継がせる姑はほとんどいなくなった。嫁の農外就労の進出に伴い姑は、嫁に農業や定期市の出店を継承させるという意識から、それらを継ぐかは嫁次第という意識へ変化した。定期市での売上金が小遣いになったことは姑にとってプラスの変化である。だが農業に従事する若い世代がいない家では姑に労働力が求められることから、農外就労の浸透が姑に負担をかけていることも看過できないといえる。

売薬行商人とみやげ―売薬版画のもつ情報―

今井 祥香(東京家政学院大学)

 富山県の歴史の中で、富山の薬売りは全国的に有名で、江戸時代から続く産業である。その中でも、売薬行商人がおみやげに持っていったものは得意先に喜ばれ、日本のおまけの元祖とされている。今回取り上げる売薬版画は絵紙と呼ばれ、他の地方の版画とは違って、売薬産業と結びついていた。富山売薬についての先行研究は膨大にあるが、売薬版画に焦点をおいた研究はほとんどされておらず、わずかに美術雑誌や富山の博物館の図録にあるだけである。そこで、本報告では、売薬版画の画題や作者について探っていった。

 売薬版画の起こりについてはいまだ確証がない。初期の作品には、香蝶楼国貞(1786〜1864)、菊川英山(1787〜1867)などのサインが見られ、江戸の浮世絵で活躍していた著名な作品に影響を受けたことがわかる。これらの絵師が活躍したのは、文化元年〜明治元年(1804〜1868)であるから、この頃から売薬版画は、おまけとして配られたことが推測される。

 売薬版画は、従来より前期・中期・後期の三つの区分に設定されている。

 前期作品のほとんどが富山藩お抱え絵師松浦守美の作品である。そのほかにも歌川広重などの江戸絵師の名も見られるが、これは富山版のために描いたわけではなく、江戸版からの写しであろう。中期が売薬版画の最盛期にあたり、国一の作品が多く見られ、他にも多数の絵師が売薬版画を描いている。画題の大方が芝居の役者絵と日清戦争の絵である。日露戦役の当時には、江戸の浮世絵は再び盛り上がりを見せるが、売薬版画にはそれがみられない。また特徴として、作品には輸入のアニリン染料が使用されるようになり、赤が強調され「赤絵」となる。用紙も和紙に代わり、洋紙が使用されるようになった。後期の明治末頃には、得意先のみやげ物の主流が紙風船に変わり、大正以降、売薬版画は次第に衰えていったため、後期を代表する作者はいなかったとみられる。

 得意先になぜ売薬版画が喜ばれたのか、それは当時色刷りの絵を手に入れることが難しかったのと、その版画を使って売薬行商人がいろんな話をしてくれたためではないかと思われる。

転入者と地域の伝統行事─本部町備瀬の住民とヨソモノの境界

相曽 友賀莉(筑波大学人文・文化学群人文学類)

 本稿では沖縄県国頭郡備瀬を調査地として、「地元」の人を指す備瀬人(ビセンチュ)が、民俗社会の中でどのような条件のもとに定義されているのか明らかにする。その上で、「集落」の境界線を地理的、物理的に考えるだけでなく、意識的、空間的に考えることを試みている。備瀬は300年以上の歴史を有する集落で、近世まで人々は備瀬集落の中で生と死が完結する生活を送っていた。しかし、太平洋戦争前から仕事を求めて転出者が増え続け、また近年はフクギ並木や美しい海等の自然景観に恵まれていることから、集落外や県外からの転入者が見られるようになった。その結果、集落内には備瀬で生まれ育った備瀬人、備瀬に嫁入りしてきた人、備瀬を転出した人、備瀬に新しく入ってきたヨソモノの大きく分けて4つの存在が見られる。そこで、備瀬のシヌグ祭や豊年祭などの数々の地元の祭礼と4つの存在の関わりを聞き書きすることで、人間関係の中にある備瀬人の範囲を調査した。

 備瀬人が行事への参加者を決めるにあたり、備瀬人はもちろん嫁入りした人や郷友会の会員は、参加の意思があればほぼ無条件に参加できる。しかし、ヨソモノは条件が重ならないかぎり容易に参加することができない。つまり、地縁や血縁によって強固に結ばれた備瀬人たちが、無条件に自分たちと同様の備瀬人として認識する条件の一つに「備瀬に生まれ、子供の頃を備瀬で過ごす」点があることが分かった。一方で、集落の空間を共有したとしてもヨソモノとされる存在はこの条件を満たすことがないため、備瀬人とはみなされない。そして、ヨソモノにとって備瀬人や備瀬の行事にいかに関わるかどうかで、備瀬人の人間関係の中で過ごすことができるか、備瀬に住みながら備瀬人の人間関係の外で過ごすかが分かれると指摘することができる。

日本ヒッピー再考―コミューン、学生運動を通じて―

加藤 寛子(慶応義塾大学)

 近年、大学紛争のあった1968年、あさま山荘事件のあった1972年など当時の状況を「自省的」に研究する機運が高まっている。本論文では、現在まであまり語られてこなかった「日本のヒッピー」に焦点を当てる。第一章では、アメリカで発生したヒッピーの歴史・思想・文化などを概観する。第二章では、「部族」運動を中心に日本ヒッピーについて考察する。第三章では、当時ヒッピーなどが数多く生活したコミューンに焦点を当てる。第四章では、ベ平連と大学闘争に焦点をあて、若者達が参加した政治運動を考える。最後の第五章では、1960年代〜70年代に学生生活を送った方々のインタビュー三つを参考に、時代を捉える。

 ヒッピー、コミューン、学生運動の三つに共通しているのは、集団である事と青年運動である事が挙げられる。若者が抱いていたのは、「漠然とした、権威への反抗」「何かしなくては」という思いであり、その衝動が何だったのかは未だによく分からず、非常に言語化し難い「感情」である。ヒッピーが他の対抗文化運動と異なる点は、ドラッグを用いて精神性を求めた事、自然回帰というエコロジー性をもとめた事にある。「部族」が発表した「部族宣言」は、「魂の自由」「大地に帰る」「自己の神性の実現」をテーマに掲げた。その後に誕生した「ほびっと村」は、場の提供と協同を求め、ヒッピー以外の多くの人が参加する開かれたコミューンへの変化を目指した。「真の」ヒッピーは、社会を嫌悪し忌避しない。自然で実践している事を社会に還元し、またコミューンへ戻ってゆく。旅と放浪の集団として生活する彼らだが、その動機は、社会との関係を考えつつ、「個人」の生き方を模索したかったからではないだろうか。ヒッピーは、自然回帰や愛と平和を信念に、政治ではなく「感性」で自己と社会を変容させようとした新しい「現代の民俗」なのである。

スローフードの可能性を探る

中村 麻里(慶應義塾大学)

 本論文では、現在のグローバリゼーションという事象、またそこから派生したグローカリズムについて考察を行い、その具体的な活動とされるスローフード運動を本論文のメインテーマとして取り上げる。

 フィールドワーク先としては、東京都杉並区を中心に活動を行っているスローフードすぎなみTOKYOという団体、もう一つは、日本で初めてスローフード都市を宣言し、スローフードを標榜したまちづくりを行っている宮城県気仙沼市を選んだ。この二つの調査値は、大都市圏で活動を行い、消費者の立場から行動を起こす活動、そしてまちづくりと一体化されている住民方の活動と、それぞれ異なる運動の形態であったので、行っていることや、重要視している面がそれぞれに違っており、とても興味深い調査であった。

 本論文を締めくくるに当たり、私はスローフード運動を、「食を通して己の足下を見直し、それを立て直していく」運動であると定義した。食の持つ力をもって、私たちが見落としてきた多くのつながりや喜び、食のありがたみを見直し、時間に支配され、余裕のない生活を立て直そうとする運動であると考える。

 それぞれの地域で行っている活動は、とても地道で、小さなものかもしれない。しかし、こうした地域に根付いた小さな活動は、とても壮大な目的とあらゆる問題の解決につながっており、それが確実にスローフードにかかわる方々の意識を変え、モチベーションとなっていることを目の当たりにした。

 今後私自身も、早ければ良い、過程よりも結果という風潮に惑わされることなく、速度をゆるめることでみえてくる周りの状況やつながりを大切にしていきたい。そして、遅いからこそ、時間をかけるからこそみえてくる本物の価値について模索し続けていきたい。

現代日本におけるパワースポットの基礎的研究―出雲地方の須佐神社を中心に―

黒田 達彦(ものつくり大学)

 「パワースポット」という言葉を初めて耳にしたのは、帰省時に地元・出雲の友達から「パワーをもらいに行こう」と誘われた時である。友達と一緒に訪ねた須佐神社には、県外とくに広島ナンバーが目に付いたのも印象に残っている。二〇〇七年春の高校卒業まで出雲で暮らしていても聞いたことのなかった「パワースポット」は、私が大学へ進学し地元を離れている間にブームとなったらしい。この経験に資料的裏付けを試みたのが本研究である。論文では、主に今世紀になってからのメディアでの「パワースポット」使用例と、須佐神社の実地踏査から検討を試みた。

 雑誌・新聞の記事データベース検索からは、当初オカルト的に言及されていた「パワースポット」が、ゼロ年代前半から女性誌で「幸福」「癒し」などのキーワードとともに紹介され、ゼロ年代後半から急増したことがうかがえる。この傾向は出雲地方にも影響を与え、たとえばJTBグループの旅行情報誌『るるぶ』二〇〇七年山陰版で初めて表紙に「パワースポット」と記され、本文では須佐神社の大杉も紹介された(ただしその後『るるぶ』では須佐神社が必ず紹介されるわけではなく、むしろ出雲神社や八重垣神社などが「縁結びスポット」として紹介されている)。

 須佐神社の境内に設置されている二箇所の絵馬掛けに奉納されている絵馬全二九一枚の分析からは、奉納者の七割以上が女性であることがうかがえた。また地名が記された一六二枚の分析からは、都道府県別では北は北海道から南は福岡・大分まで確認された。実数では地元の島根県よりも広島県が多かったが、対人口比で換算するとやはり島根県が群を抜いていた。

 絵馬調査に際しては、奉納者への配慮に基づき須佐神社から調査事項が制限された。佐藤善之がオタク絵馬について懸念していた事態に直面したのである。今後ますます従来とは異なるアプローチをしなければならない必要に迫られるだろう。

真和誠真会の祭り―藤崎八旛宮秋季例大祭における同窓組織と奉納―

森屋 百佳(筑波大学)

 藤崎八旛宮秋季例大祭は、熊本市で毎年9月に数日間かけて行われる熊本随一の大祭である。中でも1日かけて行われる神幸行列のある本祭は、66団体1万5千人の飾馬奉納団体が熊本市中を練り歩き、勇壮な馬追いをみせる。

 本論では、母体の種類から企業、地域、高校同窓、愛好の4つに分けられる飾馬奉納団体の中でも高校同窓団体に焦点を当て、その葛藤や特質を明らかにすることを試みた。藤崎八旛宮秋季例大祭に奉納する高校同窓団体は祭りに奉納するだけでなく、互いに協力しあい高校OB連合会を結成している。OB連合会の活動は藤崎八幡宮とは直接は関係がないものの、属する各高校同窓団体はここでの活動を通じて高校時代に感じるようなライバル心と、一方で一つの物を作り上げるという仲間意識を持つ。このことは各高校同窓団体内の規律やパフォーマンスの向上につながり、互いに関心を持ち合うことが団体存続の一助を担っていた。

 一方で個々の高校同窓団体に焦点を当てると、内部は完全なる同窓団体ではないことが窺える。真和誠真会は、真和高校同窓会の部会組織である一方で、その活動は祭り奉納に特化し独自の運営を行っている。また真和誠真会内部には非同窓生も多く含まれており、その影響範囲は運営にも及ぶ。このことからも、真和誠真会の祭りは決して同窓生だけで行われているわけではなく、真和誠真会が同窓会とは一線を隔す存在であることがわかる。同窓生と非同窓生がまじりあう団体の中では、年の離れた者同士の中に同窓意識が再構築される一方で、個人個人が場を共有することで同窓非同窓に関わらない新たな関係性を作り出していた。

 このように真和誠真会1年間を観察し、担い手とっては真和誠真会で織りなす人間模様や経験こそが祭りとして経験されていることが明らかとなった。縁が祭りを作り上げるのではなく祭りが新たな縁を作り上げていく様子を目の当たりにし、改めて祭り研究の奥深さを感じた。

現代の民俗芸能の継承―川野の車人形を中心として―

海野 菜子(首都大学東京)

 本研究は民俗芸能の継承の今日的意義を探ることを目的とし、その事例として東京都西多摩郡奥多摩町川野の車人形を中心として扱う。

 車人形は説教浄瑠璃と三味線に合わせて人形を操る人形芝居で、人形の遣い手がロクロ車と呼ばれる箱状の車に腰掛けながら人形を操る点が特徴的である。一人遣いでありながら複雑な動きを可能にした工夫の目新しさや、人形遣いの人数が少なくてすむ点から、安政期頃に考案されて以降、東京都多摩地方を中心として広まりを見せた。現在車人形の継承を継続しているのは、東京都八王子市の西川古柳座、埼玉県入間郡竹間沢、東京都西多摩郡奥多摩町川野の三座である。

 川野の車人形は明治18(1885)年に伝えられ、昭和初期頃までは村の若衆組によって盛んに活動が行われた。しかし、川野地区周辺におけるダム建設や、過疎化によって継承者は大幅に減少し、高齢化が進行している。

 しかし近年、地元小学校との連携によって地域の小学生が車人形の継承に参加する「川野車人形子ども教室」が運営され、その取り組みは2011年3月で9年目を迎えた。この活動に関する聞き取り調査からは、車人形の継承の場が、子ども同士や子どもと大人の貴重な交流の場や地域の一員としての意識を持つ場として機能する様子が見て取れた。

 民俗芸能は、原初的な段階においては宗教的な儀礼や呪術として機能し、時代とともに娯楽としての色合いを濃くしていったが、現代においては娯楽の多様化や高度経済成長期以降の民俗の急激な変容のなかで、かつてのような生活に密接に結びついた現実的機能を失ってきた。しかし、長い連続性をもって地域に伝承されてきた民俗芸能は、現在もなおその継承にあたる人々にとって、交流の機会の創出や、伝統をになってきたという共通の意識によって人々を結びつける役割を担っているのである。

都市祭礼の変遷−石川県七尾市青柏祭の事例から−

大森 美香(東北大学)

 都市祭礼の変遷に関する研究は様々なものがなされており、その中でも近代化の中で起こった「観光化」や「フェスティバル化」をキーワードとしたものは多い。しかしそれらの多くは高度経済成長や過疎化、新住民の増加など社会的・時代的な要因に重点をおいて変遷をとらえており、参加者が主体的・能動的に行った変更については軽視されてきたように思う。つまり、祭礼の変化については外部からの要望や時代の流れにより「変化せざるを得なくなった」という側面ばかり注目がいき、祭礼を運営する主体側の希望や主張により「能動的に変化させた」という側面についてはあまり論じてこられなかったということなのだ。

 私は今回この点に着目し、石川県七尾市の青柏祭を事例としてその変遷をおい、その背景にある社会的・時代的な変化と照らし合わせるだけでなく、祭礼に参加する人々が祭礼にどのような変化をもたらしたのか、また変化をどのようにとらえていたのか、そして自分たちの祭礼がどうあるべきと考えているのか、ということに重点をおいて考察した。

 その結果、祭礼の変更には@観光化・都市祭礼化に向けてのもの、A伝統の復興に向けてのものという一見相反する意思があることがわかった。

 近年の祭礼においては単にイベント化し華やかさを付与させるだけでは一次的な盛り上がりは得られてもすぐにすたれてしまう傾向があり、それを反省する動きもみられる。反対に歴史や伝統を基準として得られる「真正性」は祭礼に裏付けと価値を付与する働きがあり、観光客と運営者いずれに対しても参加する意義、継承していく意欲を与える。

 青柏祭の参加者においても「真正性」の獲得は重要な問題となっているといえ、これの獲得により観光資源としての価値を高め、経済的な利益を得ると同時に、地域住民のアイデンティティとする役割も果たしているのである。

モノからみる都市祭礼の変化 ―萩の住吉祭り「お船山車」を例に―

守繁 月代美(熊本大学)

 本論は山口県萩市住吉神社神幸祭におけるお船山車巡行を事例として、モノを通して祭りの担い手の意識の変化を探ったものである。

 住吉祭りは万治二年(一六五九)に始まり、派手な練り物が市中を練り歩くのだが、その中でもお船山車上で行われるお船謠演唱は一際目を引く出し物で、演唱者である地謠組も自らを誇り、県文化財であるお船謠を継承する事に尽力している。

 しかし地謠組にとってお船山車とは巡行のための「交通手段」であると地謠組の大嶋栄氏が明言する程、地謠組はお船謠演唱の舞台であるお船山車を重要視していなかった。それは地謠組がお船謠という芸能の担い手であり、お船山車自体に対しては保存・継承の強い意思がなかったためだ。

 近世期のお船山車は協敬組という組織の管轄下で継承されており、祭礼当日は協敬組がお船山車巡行を先導・指揮する役目を任されていた。陸仲仕として陸上荷物を運搬する仕事を任されていた協敬組は、お船山車や地謠組を運搬の対象として認識し、お船山車巡行を取り仕切っていた。

 だが明治以降、協敬組は表師と呼ばれるようになり、お船山車を先導する役目だけを担うようになる。現在は有志の者のみで構成され、その中には地謠組を引退した者も数人いる。こうして地謠組(芸能の担い手)が協敬組(モノの担い手)を兼ねる事になり、お船山車は地謠組の管理下でより使いやすい様に変化していく。平成九年(一九九七)のお船山車の新造では、地謠組は古くて窮屈だったお船山車を一回り大きく設計し、快適に演唱できるように改良した。この事を契機に地謠組はお船山車の継承者として自律的に行動し始め、芸能継承者の立場からモノの保全に努める様になった。

 お船山車の新造に伴う一連の動きは、祭礼における人々のモノに対する意識を変え、祭の継承についての新たな誇りをも生んだ。モノは祭りに携わる人々の意識を表す媒体として存在している。

上武地域におけるクワトリビナ習俗の研究

高橋 菜々子(新潟大学)

 クワトリビナ習俗とは養蚕が盛んであった上武国境地域において確認されている、古くなった雛人形を桑畑に送り出すという風習である。この習俗に関しては群馬・埼玉県史や市町村史に事例報告があるのみで、考察を重ねた論考は見られない。また多くの事例において豊蚕予祝儀礼であるとの見方がされているが、その根拠も示されていない。私はこの風習を豊蚕予祝儀礼としてのみ捉えて良いのか、何故桑畑が人形の送り場所となったのかという点に焦点を絞り調査研究を試みた。

 現地調査では88事例を収集することが出来たが、話の多くがクワトリビナ習俗と養蚕との関係を説明するものであった。しかし疱瘡になった時に雛人形を桑畑に送り出すという「疱瘡送り」の意味合いを持つ事例が明らかになった。また雛人形ではなく紙人形(ひとがた)や赤い幣束を桟俵に乗せて桑畑に送り出す事例も存在していることから、元々この地域では桑畑に疱瘡を送り出す風習があったと考えられる。そして雛人形がこの紙人形や幣束と取って代わり、疱瘡送りと同時に雛送りの意味を有するようになったと推測される。このように疱瘡送りとも習合したクワトリビナ習俗が伝播し時代を追うごとに、養蚕と「桑畑」というキーワードを通して結びついていったのだろう。

 次に問題になるのは何故疱瘡や人形の送り先として桑畑が選ばれたのかということである。一般的に疱瘡送りや雛送りで送り出す場所である三本辻や神社、道祖神はあの世とこの世の境界であるという認識を持たれていることが多いが、クワトリビナ習俗における桑畑にも同様のことが言えると考えられる。本調査地域において疱瘡や雛人形の送り出す場所として桑畑が選ばれたのは、「蚕の餌としての桑」という意味合いだけでなく、桑畑・桑樹の持つ境界的意味合いがあったからであろう。

つるし飾りブームの背景とその担い手の関わり─宮城県遠田郡涌谷町箟岳の事例をもとに─

福原 陽菜(東北学院大学)

 これまでの民俗学の研究において、雛祭りは穢れや疫病を祓う信仰的な行事であるとされてきた。それは、つるし飾りにおいても同様で、信仰的側面に重点が置かれたものが多数であった。一方、近年のいわゆる「つるし飾りブーム」については、それをとりまく信仰面のみならず、地域おこしとしての観光的側面にも注目する研究もみられるが、その関係だけが表面的に語られている程度にとどまっている。もっと担い手の思いや位置づけに注目した研究があってもいいのではないだろうか。そこで、2002年からつるし飾りが注目され始めた宮城県遠田郡涌谷町箟岳地区の事例を中心に、なぜつるし飾りが地域に定着し盛んになったのか、これに携わる人びとの視点から検討してみることにした。

 箟岳地区のつるし飾りは、箟峯寺の実相坊が伊豆稲取から購入してきたものを宿坊に飾ったのが始まりであったが、この段階ではまだ観光客のみを対象としたものであった。しかし、これを見たある住民が「美しい」「自分でも作成してみたい」といった感情をもち、その後「つるしびなサークル」を結成し、展示会などが開催されることで、地域に広まり定着していく。つるし飾りは、これまでの「見て楽しむ」ものから、自分で「作って楽しむ」ものへと変化していったのである。「自分の手で作る」ことで、つるし飾りが人びとの中でより親しみやすいもの、愛着がわくものとなっていった。さらに、この地域のつるし飾りが映画の題材として取り上げられると、外部に発信されたことでその価値が再認識されるとともに地域の象徴となり、現在に至っていたのである。

 以上のことから、作り手の楽しみというものが、つるし飾りが定着した背景にあったことが指摘できる。観光資源や映画の題材化など外部からのまなざしとともに、「作って楽しむ」という作る側の欲求が満たされてこそ、つるし飾りは地域に定着していたのである。

津和野の鷺舞神事―民俗行事とまちづくり―

杉浦 理恵(佛教大学)

 本論の目的は、民俗行事が地域の中で継承される事にどのような意味があり、今後まちづくりとどのように関係していくべきかを、島根県鹿足郡津和野町の鷺舞神事を事例に探る事にある。

 津和野町は二〇〇五年に旧日原町と合併した町で、鷺舞神事が残るのは旧津和野町の中心部、後田地区界隈の盆地である。かつて津和野藩の城下町であり、一九七〇年代に雑誌等で山陰の小京都と取り上げられ、観光客が多く訪れた。

 津和野町の鷺舞神事は、京都の祇園会の風流が山口を経由して伝わり、政治的理由で一時中絶の後、京都から直接伝習した事が先行研究でわかっている。

 鷺舞神事は、弥栄神社の七月二十日〜二十七日の祭礼で神輿の渡御と還御に付随し、神社総代の頭屋組織と鷺舞保存会により執行される。

 鷺舞神事の今後の課題として、頭屋組織と鷺舞保存会の後継者確保・人手不足がある。しかし、何らかの地縁がある人以外の参加が見受けられず、その他の参加が考えられていないようである。

 津和野町は鷺舞神事を地域活性化のため、観光資源としているように見受けられるが、この後継者の課題が存在する。また、近年の民俗学で、民俗芸能を地域に活かす際、行うという本質的意義が無視されていると指摘される。

 民俗芸能を行う事は、この本質的意義により結果として、担い手の共同体での連帯心を育て、住民としての成長に繋がると考えられる。これを植木行宣は「地域の教育力」と呼ぶ。鷺舞神事も行う事で「地域の教育力」をもち、この事による地域活性化も、「まちづくり」に繋がるのではないだろうか。

 以上の事から、担い手確保のため、地縁を保ちつつ、地元や周りの地域からも参加者を得られる工夫をして、保存活動を行う事が必要になると考える。また、民俗芸能を観光資源とした地域活性化は一つの方法と認められるが、民俗芸能の「地域の教育力」に継承者や地域の人々が気づき、活かす事も今後は大切となるのではないかと考える。

日本における鬼のあつかいについて

深山 夏海(東京家政学院大学)

 一般的な鬼のイメージは「怪力・勇猛・無慈悲・恐ろしい」といったものである。中には人間を助けたり、また人間に出し抜かれてしまうような者もいるがそれらの鬼はイレギュラーであり世間では恐ろしいというイメージでよく知られている。

 鬼とは日本人が思い描く「人間」の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」としての造形された概念・イメージだとされている。では、その鬼という存在は何処から来て、どのようなモノたちに与えられた名前だったのであろうか。

 研究史において鬼の本来の姿は神なのであると言う鬼の一つの見方が生まれた。日本の神様と言うのは八百万でありアミニズムの考え方が其処にはある、日本古来より信仰されてきた神々は人間をとりまく自然そのものであり神の二面性のうち祟る部分が鬼と見られた。しかし人間こそ鬼であったと言う見解ものちに生まれた。鬼達の正体は朝敵である、という見解や差別的な扱いを受けていた山に住まう人々だったという。

 それに対し、一般の民衆の中の鬼とはどのようモノだったのであろうか、二章では一般人よりの物語を調べその中から鬼の立ち位置を判断した。結果、歴史的な物語の中の鬼が徒党を組んで村を襲い、人を食い、さらう、また嫉妬に狂って鬼となり、それを誰かが倒す英雄譚が多かったが、民話の中の鬼達は2人くらいで行動することが多く、村を襲う事もあるが基本的に山に迷い込んだ人間を食べる描写を多く見る事が出来た。この事から民衆の中の鬼と言うのは精霊的な一面を持つ神的要素、暴れまわる山賊的要素、また子供を危険な夜の山から遠ざけようとする教訓的要素があると私は思った。民衆の中の鬼と言うのは山賊の変化形と思われるモノを多く見る事が出来た。ただそれらの鬼は不思議な力の宝物を持っている事が多く精霊的な鬼と混ざって行ったのではないかと私は判断する。

屋根裏のフォークロア

松隈 雄大(國學院大學)

 日本の伝統的な民家の屋根裏空間は、家財道具の収納場所や養蚕のような生業を行う場所といった実利的空間として活用されていた。しかしその一方で、民家の屋根裏に関する習俗に注目してみると、祭祀や呪術が行われる信仰的空間としても意識され、利用されていたことが分かる。発表では、具体的事例を挙げつつ屋根裏がもつ信仰的空間としての機能を検討した。

 各地の伝承事例に基づけば、屋根裏の信仰的空間としての機能には、次の三種類があることを指摘できる。

 第一は神霊の通路としての機能である。鬼神が通路として利用したために、特定の民家では屋根に煙出しを造らないのだと説く渡辺綱伝説や、屋根の開口部から屋内へ向かって呼びかける魂呼び習俗、四十九日まで死者の霊魂が棟に留まるとする俗信が事例として挙げられる。

 第二は住宅の守護と住人の安全の祈願場所としての機能である。祈願は住人によるものと大工によるものとの二通りがあり、前者は古くなったお札を大量に貯めて屋根裏に上げておくと火伏せになるとする俗信や、福島県で棟上げの際に棟木に取り付けられる男根・女陰形の呪物、後者は棟上げ式の飾り物や棟札を大工が屋根裏に残しておく事例が挙げられる。この視点からは、大工が宗教者的な側面をもつことが明らかになる。

 第三は特定の神の祭祀空間としての機能である。高知県の天の神・オンザキと呼ばれる神は屋根裏に祀られており、山形県のオタナサマも屋根裏に祀るとする事例がある。神を屋根裏に祀るということは屋内の高所に神を祀るということと考えるなら、神棚や年神棚を屋内の高所に設置することとも連続してくる。

 屋根裏の信仰的空間としての機能については、従来、その全体を捉えた研究はなく、今回はその全体像を把握するための研究として報告した。

影の研究

藤井 映子(國學院大學)

 カゲと一口に言っても、暗がりの陰、星影・月影・炎影といった光を指すようにその意味は広い。なかでも形を纏った像の影が持つ役割を探っていきたい。

一、影による予見

 影を使った占いに、小正月を中心とする月光で首の影を映して寿命を占う「影見(首見)」がある。また、沖縄県に分布する昔話「首のない影」では、十五夜の月光による首の影の消失が命の危機を知らせている。魂は頭部に宿り、首から抜け出るという信仰がうかがえる。一方、特別な井戸や泉に影を投じる「姿見」は、水鏡した影の鮮明さで同じく寿命を占う。このように、影はある期間の月光や特定の水場などの媒体を通すことで、霊魂を視覚化できると信じられてきたのである。

二、影が現す魂

 見ることのできない魂を現す影であるが、その影を攻撃されることは魂を脅かすことであった。各地に残る「影取伝説」は、水面に投じた影がそこに棲む魔物に攻撃され、影の持ち主は肉体に傷を受けていないにも関わらず、死に至る。陸地の影を舐められる場合もあるが、攻撃する側は牛鬼や蛇などの水性の魔物だ。影は本体と同じ形を持つ性質から、魂を共有すると考えられる。さらに、影は本性を表面化すると信じられた。化けた異類の正体が影の異常によって発覚するように、影は時に本体の形よりも優先される判断材料となった。

三、影と分身

 霊魂が生前の姿でもって知人に会いに行くことを「面影」というが、同一人物が同時存在することを「影の病」と呼んだ。中国では「離魂病」とされ、世界の文学作品にも見ることができる。特に文学作品では、社会的地位や財産を求める際に、影を喪失し、社会から追放されるモチーフが多い。本体の願望を叶えるために分離された影は、分身でありながらも本質を映し、抑圧されたもうひとつの自我を投影している。

 影は変化し、手に取れないが、存在の証である。我々は影を分身として意識し、霊魂を重ね合わせたのだろう。

遺影が語るもの

ケ 君龍(玉川大学)

 遺影は日本では仏具としても葬具としても明確な位置づけを確立しないまま、現在死を取り巻く風景には必ず見られるほど普及している。小論『遺影が語るもの』はこの遺影を素材とし、聞き書きと文献調査によってその諸相について報告する。

 聞き書きは、筆者の近親者と所属する玉川大学の教職員や友人、葬儀関係者、写真館、仏壇販売業者を対象として行った。遺影の作成のされ方、および作成後の扱われ方は、死や死者に対する心性が表れているのではないかと筆者は考えている。遺影の扱われ方については、特に遺影の置かれる場、そして「家」と遺影との関わりから分析した。また、これまで取り上げられることがなかった遺影の系譜にも目を向け、今後の検討に有用と思われる肖像の事例を二点挙げた。

 遺影の作成において、選ばれる写真は必ずしも新しいものではなく、故人の尊厳を表すものや日常の様子に近いものであった。また、拡大・背景を切り取るなどの処理が行われる。小論ではこれを写真が死者を唯一表象するものになるための手続きとして捉えた。作成された遺影は葬儀の中心行事や仏壇の中などの場で位牌に代わるものとして扱われている。このことから遺影が位牌と同程度かそれ以上に重要視されている可能性を指摘した。裁判で勝訴した被害者遺族が被告側に対して墓でも位牌でもなく遺影に謝罪を求めた例もある。葬儀社の関与が考えられるにせよ、遺影は日本人の生活文化に違和感なく浸透したといってよい。

 「家」と遺影の関わりからは、遺影がイエ観念、および家屋構造に深く根差していることを確認した。そこで、小論では「遺影は飾るべきもの、そうして自分たちの家に飾るのでなければ何処も他では飾る者のない故人の肖像」と理解した。遺影がその他の肖像と決定的に異なる点は、飾られる場が想定されているか否かである。

 なお、本発表では小論作成後に開催された「明るい遺影写真展」についての考察を加えている。

愛宕信仰と講集団〜亀岡市保津町の事例を中心に〜

細里 わか奈(佛教大学文学部人文学科)

 近世期から戦前にかけて組織され、地縁的、あるいは血縁的関係で強く結ばれてきた講集団。頼母子講や日待講、お伊勢講など、さまざまな目的をもって構成された講集団が現在でも多く存在するが、その性格や各地域における役割は地域環境の変化と共に変容しつつある。

 本論文で取り上げる愛宕講のような講集団の多くは、信仰を同じくした者たちが集い、寄合・代参等を行う。しかし、講集団が構成されてから現在にまで続く要因となるのは必ずしも「信仰心」のみではない。今回調査した亀岡市保津町の愛宕講は、京都愛宕山の麓であることもあり、愛宕山と非常に深い関わりを持つ地域である。近世期に保津町を含む麓の集落には愛宕山坊人と呼ばれた宗教者たちが住んでいたことが宗旨人別改帳により分かっており、また同時期に保津町に建てられた愛宕石灯篭が町内の各地に現存し、地域の人々によって毎晩「火とぼし」が行われている。そしてこれらに加えて、戦前から愛宕講を組織していた昭和期の婦人会や、人々の生活と火の関係を考察しそれぞれをまとめた結果、現在の保津町の愛宕講を構成する要素として、「生活における火の重要性と火伏せ信仰の関係、」「愛宕信仰と山麓の村々の関係」、「愛宕講と地域交流の関係」の三つが挙げられると論者は仮定した。これらのような講集団の要素を含む愛宕講は、古くからある保津町と愛宕信仰の歴史的なつながりを残し、保津町の人々の地縁的関係を守ってきた。

 しかし、現在保津町では少子高齢化により愛宕講の担い手は不足している。また、都市化による新たな入居者の増加によって、近隣との交流や接触が少ない地域も増えつつある。これらのような現代社会で多く見られる講集団の問題点を明らかにし、亀岡市保津町の愛宕講の例を通して今後の課題を考察した。

十九夜講―その変遷と現代における機能―

前橋 由季子(首都大学東京)

 日本の地域社会には、「講」と呼ばれる、様々な機能をもった伝統的な集団がある。全国で約300種にものぼって確認されている講を、先行研究に基づき、(1)信仰的機能をもつ講、(2)社会的機能をもつ講、(3)経済的機能をもつ講に分類し、それぞれの性質を追う。すると、講の大半は、(1)を目的として発生し、徐々に(2)、(3)を主軸に据えるように変化していったものであることがわかる。

 しかし、女性の講は、(1)が根源である点は同様だが、女性の集団であるため(2)(主に政治的機能について)、(3)に変わることは無かった。こういった特徴を持つ女性の講の一種に、安産祈願をするための講である「十九夜講」がある。「十九夜講」は、前述の特徴に加えて、過疎化や少子高齢化、晩婚化、医療の進歩といった、現代の状況や社会問題に悉く逆行した性質を持っている。それにも関わらず、現在も多くの存続が確認されている。このような講は、なぜ、どのように現代まで存続してきたのか。

 福島県いわき市の「十九夜講」講員への聞き取りを中心に事例調査を行い、その変遷と現在の姿を記録した。すると、後継者の存在を前提とした組織の性質に反し、後継者のいなくなった現状が浮き彫りとなる。また、それに対応し、急速で柔軟な変化をして現代の地域社会に合った機能を果たしていることがわかる。具体的には、講員の高齢化や娯楽的機能の強化である。これは外的要因の影響が少ない集団であるためである。また、安産祈願という目的と娯楽的機能を果たす側面から、集団でありつつも各講員個人のための講であると言え、組織としての変容を阻む理由が無かった。以上のような、講の消失も含めた変化を受容する性質が、かえって時代に合った柔軟な変化を促し、現在までの存続を支えてきたと言える。しかし、後継者の不在については、講組織自体の変化で解決できるものではなく、存続が危ぶまれる。