第843回談話会発表要旨(2009年7月12日)

「民俗の『創造性』と現代社会」(日本民俗学会第61回年会プレ・シンポジウム)

趣旨

 高度経済成長とその破綻、そして、市場原理主義のグローバル化とその自壊など、現代社会がかかえる諸問題は深刻で、今や地域のコミュニティーや文化は無化されかねない状況にある。第61回年会シンポジウムの課題を「民俗の『創造性』と現代社会」としたのは、このような現代社会にあって、日本人は歴史過程において、さまざまな民俗をどのように創造、あるいは再解釈してきたのかを明らかにし、そこに存在する活力や思想について議論しながら、日本人の価値観を見直す契機をつくりだすためである。

 日本民俗学は生活の変化や変遷を明らかにするために、現在から過去を振り返るという研究手法をとってきた。そのため歴史の流れの中で人々は何を求め、何を選択し、どのような文化を創造してきたのか、あるいは逆に破壊してきたのかといった問いは生まれてこなかった。また、近年は「近代」という不確定な時空を設定し、それ以後に生起する事象の中に「民俗」を発見しようとするがごとき研究がある。しかし、前近代においてもさまざまな「民俗」が作り出されており、いわゆる「伝統の創造」論こそ再検証と批判が加えられるべきである。

 今回のシンポジウムでは、こうした民俗学の方法や現在の文化研究の動向も問い直しながら、日本民俗学がもつべき如上の目的と課題を議論する。

概要

小川直之

 第61回年会シンポジウムのプレシンポジウムとして開催した談話会の趣旨等は右の通りで、発表者とコメンテーターは、年会時にはプレシンポのコメンテーターが発表者に、プレシンポ発表者がコメンテーターとなることでシンポジウムとしての連続性を持たせるように企画した。

 プレシンポでは、初めにコーディネーターの小川が発表者の紹介と趣旨説明を行い、続いて大門、山下が標記のテーマで発表を行った。それぞれの発表後には発表内容についての質問を受けた。その後、中野の司会で三者からのコメントがあり、このコメントに対する発表者の意見が述べられてから、発表者、コメンテーター、コーディネーター、出席者による討論を行った。

 大門発表は、「創造とは他者との対話を通じて<慣わし/ローカル知/土着知>を再文脈化する過程。対話をおこなう主体と他者は、慣わしに関するユーザーとして同じ位相にあるが、立ち位置の違いから、関わり方は穏当/過激の二種類に大別できる」として、庶民・住民・被支配者・個別主体である穏当なユーザーと、エリート・よそもの・支配者・有力者・メディア・諸制度である過激なユーザーとの交渉のあり方に「創造」の姿を見ることができるという創造論の枠組みを示し、その具体例として近世後期から確認できる金沢の「盆正月」と呼ばれた官祭的行事を取り上げた。

 山下発表は、限界集落論がもつ誤謬を指摘しながら批判した後、自らの民俗学的実践例をあげて、地域「民俗」の住民による再認識、再生による地域活性を具体的に論じた。それは、民俗調査という住民と民俗学徒によるコミュニケーショナルな協働作業によって、「「意味ある仕事(物事)」が羅列され、その「羅列」から見える可能性を農村住民自身が覚知し、直面する卑近で切実な問題を解決するために既存の「羅列」に加えて「段取り」し直」すことが「農村生活者としての認識の秩序の再生であり、また現代における「民俗」の再生であると言えるのではないか」ということで、ここに「民俗の創造論」があるという指摘であった。

 これらの発表に対して大石、小熊、八木が、それぞれの研究課題に則しながらコメントが行われ、討論に移ったが、このプレシンポで明らかになったのは、「創造性」をどのように規定するかが重要な問題となることであった。大門は「穏当なユーザー」と「過激なユーザー」の「交渉」のあり様に、山下は潜在する民俗の「段取り」のし直しに創造性を見ていくことができるという発表であった。

現代農村における民俗学の実践性と民俗の創造性−学と暮らしの協働力−

山下裕作

 現代における農村、特に中山間と称される地域に位置する農村は、長らくその存在の永続性について疑問視されていた。農民層分解論、村の解体、過疎化、高齢化、そして近年の限界集落論は、いずれも将来における農村の崩壊を予言してきた。これらは何れも、体系だった論理的構成を持ち、数値的な解釈を含む「科学的」な説論である。しかしながら、当初予想されていたほど集落は潰れているであろうか。限界集落論に基づき、行政が2000近くの集落の廃村を予言しているが、それは本当なのだろうか。1974年に出版された山口源吾『高距限界集落』では、88(執筆当時、既廃村29)の高距集落を取り上げ、廃村を危惧している。しかし、59の残存集落のほとんど全てが今も存在し、近年の限界集落化も、ほとんど見られない(2000年農業センサス集落カードより)。

 民俗学は、「科学的」に村の「解体」が唱えられていた頃、「伝承母体論」という伝承を「継続」する組織として村を見てきた。実際に村落に入り、聞き取りを行う経験から、「分解」や「解体」という村の将来に関する「科学的」予言に与しえなかったのだろう。しかし、近年の限界集落論は、これまでの「科学的」予言とは少し異なる。論のエッセンスがあまりに単純なため中央・地方の行政や地域住民自身らにも理解されやすく、安易に受容されてしまう。その弊害は大きい。今や住民自身までが、自分の村を限界集落と規定し、直面する問題の原因を限界集落化という大きな物語に求め、自身の手足による実践で解決しようとしない。報告者は、そうした限界集落化や廃村が予言される集落において民俗調査を行った。そのいくつかの集落で民俗調査の効果とも言うべきものが見られた。川遊びの話を聞き取っていたら、何十年も管理放棄されていた集落内小河川の管理活動が住民の手で始まり、耕作放棄地の解消にまで繋がった。生業について聞き取りしていたところ、話者がカレンダーの裏面に当時の様子の絵を描いて下さった。その絵を戸数分カラーコピーしてお返ししたところ、描かれた祭りが復活され、十組ほどの若い家族が集落に戻った。前者は高齢化率49%の準限界集落、後者は50代の二人以外は全てが高齢者という限界集落での出来事である。また、ある時、地域振興を考えるワークショップにおいては、地域の民俗誌の記述を羅列的に紹介させていただいた。村中での仕事、子供の遊びの部分である。すると、報告者を差し置いて、住民同士の自律的な対話が非常に活発にそして闊達になされた。そのワークショップの様子を見て、民俗調査が、地域に何かしらの「創造」をもたらす一つの手だてになってきたのではないかと考えた。

 報告者は現地調査が不得手である。「羅列的」であって、「科学的」な論理性が無い。しかし、コミュニケーショナルな聞き取り調査の中で様々な事象が地域住民の前に羅列される。そうすると住民自身がその羅列を「段取り」して自ら実践していく。直面する問題一つ一つを、「限界集落化」という大きな物語から、手足の実践による解決が可能な卑近で切実な問題として、自己の元に取り戻しているように見える。民俗誌の記述には、並立列記の体裁をとるものが少なからずある。これは、報告者のごとき下手な調査の結果なのではなく、客観的な記述を求めた結果である。そして調査そのものも、おそらくは並立列記たるものが多かったことと思われる。地方史・緊急民俗調査・自治体史と繰り返されてきた民俗学の「羅列」が、「分解」「解体」「限界」などという「科学的」予言に抗する住民自身の「段取り」による実践を創造してきたと考えるのは、突飛すぎる考えであろうか。

穏当な創造力、過激な創造力―19〜20世紀金沢の「造り物」装飾―

大門 哲

 創造論の構築にあたっては民俗学独自の創造性の定義付けが必要であろう。ここでは、創造性を、主体が他者との対話を通して<慣わし>を再文脈化する過程と考えたい。

 対話を行う主体と他者は、<慣わし>にかかわるユーザーとして同じ位相にあるが、立ち位置の違いから、関与の方法は、穏当/過激の二種類に大別できる。

 穏当なユーザーは、<慣わしのヘゲモニー>下にあるが、その虜にあるわけでなく、<他者>との対話を通して、<慣わしの文脈・心持ち>を再発見し、新たな文脈・心持ちに沿った意義・素材・技能に再編・刷新させる関わり方をもつ。

 対して過激なユーザーは、<慣わしのヘゲモニー>から離脱した固有の場所にたって、<慣わし>を<思惑・プラン>のなかに再布置し、思惑に沿う意義・素材・技能に再編・刷新させる関わり方をもつ。後者の活動は、具体的には指導・教育という形態をもつ。敷衍すれば、伝承は、穏当なユーザー(心持ち)と過激なユーザー(思惑)の交渉過程として展開すると把握できよう。

 この視点は、都市祭礼論を議論するにあたっても有効であろう。というのは、都市祭礼論は、町人の主体性や柔軟な想像力を評価する民俗学的視点と、支配・統治装置として捉える歴史学的視点のいずれかに偏る傾向にあるが、創造論はこのふたつの視点を入れ子状に組合せられるからである。

 具体的に、十九世紀における金沢最大の祭礼・盆正月を例に検討しよう。盆正月とは、藩主家に慶事があった際に、藩からの通達によって実施された催しである。当日が休み日となること、町人が藩主へ祝意を表することを特質とした。十九世紀以降になると、各町が造り物を競合して制作し、さらに装飾の様子を案内する番付まで開版された。このような祝祭的状況に対し、藩からは自粛要請が出された。

 藩と町人を二項対立的に捉える視点からすれば、藩の統治力が弱体化し、盆正月が町人のエネルギー発散の場に形骸化したような評価を下せる。しかし、造り物を藩主の上覧に供したことを鑑みれば、藩側にとって、当該装飾は、決して厄介な出し物ではなかったと思われる。
まず、そのモチーフが謡曲・吉祥等を中心としているため、礼楽思想を反映・象形化させた造形と評価されていたと推定される。また、祭礼がおびがちな、暴力・浪費といったリスクも希薄だった。なぜなら、造形物は、日常品を流用するブリコラージュ性を特質とするため、基本的にローコストであり、また、練り物・踊りのように移動がないため、職分や身分を表象させた空間秩序を混乱させることはなかったからである。

 つまり、町人たちは藩側の思惑を心持ちとして受け止めた形で祝意を表していたのである。そう考えると、造り物番付を、町人たちの遊芸エネルギーの競合激化をしめす資料というような単純な理解でことたれるわけにはいかない。それは藩への町人の全体的従属(自己統治の競合)化をうながした政治メディアであったと評価できよう。また、藩の通達は、町人たちの活動の容認・奨励を内部化させた「儀礼的指導」であったといえる。