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談話会要旨-第848回(2009年度 民俗学関係卒業論文発表会)C会場

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河童のイメージの変遷について〜絵画資料の分析を中心に〜

小澤 葉菜(成城大学文芸学部文化史学科)

現在の河童の一般的イメージといえば、たいていの場合が、体が緑色で頭に皿と呼ばれる部分があり、甲羅を背負い、口がくちばしのような河童ではないだろうか。近年では可愛らしく描かれることも多く、こうした現在の一般的イメージに至るまで、河童はどのようにイメージされ、変遷してきたのかを、絵画資料を用いて考察した。

河童のイメージには、二つの転換期があったと思われる。一つ目は、19世紀の前半である。河童が絵画として『和漢三才図会』(寺島良安、正徳2(1712)年序)に初めて登場して以来は、猿をイメージして描かれることが多かったが、『千蟲譜』(栗本丹洲、文化8(1811)年序)や、『水虎考略』(古賀?庵編、文政3(1820)年)が著されてからは、知識人の間では亀やスッポンに近いイメージが定着したようである。

二つ目は、19世紀中頃〜後半に描かれた錦絵においてであり、河童は蛙に近く、より小さく愛らしい姿で描かれた。それまでにも、蛙をイメージしたと思われる絵は存在したが、滑稽で愛嬌のある性格が描かれるようになったのは、19世紀半ば以降のことである。この二つ目のイメージの転換が、現代の一般的イメージの源流ともいえるのではないだろうか。またそういった性格は、清水崑などに代表される、近現代の漫画や絵画に登場する河童にも受け継がれているとみることができ、雑誌などを通して、多くの人の共有イメージとして定着していったと考えることができる。この二つの転換の背景には、河童のイメージを、猿よりも身近な亀やスッポンに求め、河童を研究対象として扱った知識人と、蛙や亀をイメージして、可愛らしく滑稽な性格を与えた錦絵師の存在、そしてそれを娯楽として受容する江戸庶民の存在があったものと思われる。

今後は、河童が描かれた地方ごとでのイメージの差異や、錦絵の作成、流通状態などの詳しい調査、近現代の絵画資料の補足など、不十分な点の更なる充実を課題としたい。

近世における轆轤首イメージの展開

三浦 達尋(東北大学)

現代では首が長く伸びる妖怪として描かれる轆轤首であるが、その姿が一般化した近世において、轆轤首は首が長く伸びるだけでなく、様々な姿で描かれていた。「轆轤首」という名称は中国の文献から取った日本独自の用法であり、中国では「飛頭蛮」「飛頭?」「落頭民」などの名称で呼ばれていた。中国の「飛頭蛮」は胴体から頭が分離し、その頭が飛行する異民族であった。その伝承が日本に輸入された当初は「轆轤首」もそのような姿で語られ描かれた。胴体から頭が離れて飛ぶという状態を絵画表現で説明するために胴体と頭を線などでつないで描いたところから、その表現が誇張されていくうち、今日の首長の轆轤首が誕生し、絵が主体のメディアで人気のキャラクターとなっていった。以上が先行研究である。

轆轤首がメディアにおいてキャラクター化していく一方で、巷間では美人なのに結婚の上手くいかない女性などを轆轤首であるとする噂が広がる。中国では辺境民族を表現するためであった飛頭伝承が、本邦においては他者を中傷する巷説として語られることとなったのである。人々がどのようなイメージを以って他者を轆轤首であると見做し語っていたのかを、当時の巷説を書き記した知識人たちの随筆から辿っていく。江戸の知識人たちは中国の文献や日本各地の情勢に通じていたため、巷説の轆轤首と文献の上での轆轤首の元となった伝承を比較できる立場にあったと考えられる。

轆轤首が視覚的メディアで人気を博していき、人々に浸透していく一方で、轆轤首は他者を中傷する言葉にもなっていったのである。轆轤首が広く認知されればされるほど、噂は影響力を持ったと思われる。中国では辺境民族を語るために用いられていたものが、文脈の異なる日本においては、辺境よりも近しい人々を語るために用いられていたのである。絵画表現としての轆轤首イメージの展開と共に、人々が轆轤首を語る際のイメージも変化していった。

火車のイメージの変遷と猫檀家

中村 祥子(國學院大學)

本発表は、火車説話における「火車」のイメージが仏教のものから猫の化物とされるようになった過程を、平安時代から江戸時代までの文献資料から読み取る。続いて火車説話と昔話「猫檀家」において引き起こされる怪異とその背景、火車説話及び「猫檀家」への寺院の介入等について考察する。

火車は当初、平安時代や鎌倉時代の仏教説話集に現れていた。しかし、江戸時代には怪談の一つとして語られ、随筆や浮世草紙などにも登場する。ここから、火車という死体を奪う化物の存在は、江戸時代には民衆に定着していたと考えられる。ただしそのイメージは仏教のものに限らない、怪異性を帯びたものである。

火車は、時代が下るに連れ「猫の化物」のイメージが強くなり、「火の車」に取って代わるようになっていった。一七〇〇年代には「火の車」と「猫の化物」が交錯し、その後「猫の化物」へ傾斜することで仏教色は失われていったのではないか。

また、死体を奪っていく雷神が挿絵に描かれていること、落雷によって悪人が滅ぶという考えが『十訓抄』などに見られること、江戸時代に雷神が悪人の肉体を掴み取る俗信があったことなどを併せて考えると、次第に火車に「雷神」の側面が加わっていったように思われる。火車が登場する際に天候が悪化し雷が鳴るのも、雷神のイメージと考えられる。火車は「火の車」「雷神」「猫の化物」と変遷していき、火車が「猫の化物」とされる段階で、暴風雨を伴って現れるのには、「雷神」のイメージが残存しているからといえる。

次に、火車説話と共通項が多い昔話「猫檀家」について、「棺の行方」「暴風雨」「棺の行方と暴風雨」のどれが語られているかを、それぞれ報恩の有無と併せて六タイプに分類し、もともと語られていた「猫檀家」本来の姿を考察した。また、各地の伝承を見ていくと、一部で特定の寺院名が語られており、寺院数では曹洞宗のものが多い。伝承地別に見える寺院数にも曹洞宗が多く、「猫檀家」の分布状況と重なることから、「猫檀家」と曹洞宗は何らかの関係があると考える。

通過儀礼とライトノベル作品分析

名古屋 桂子(敬和学園大学人文学部)

近代以前の日本社会で、通過儀礼は重要な意義を持ち、また機能していたと考えられている。しかし現代において、イニシエーションとしての通過儀礼はその機能を失っている。

通過儀礼の主体となっていた民俗社会とは、ムラと言う共同体で構成された社会だと言う事が出来るだろう。しかし、ムラ的な社会は都市的な社会に移り変わってゆき、この変化と共に通過儀礼は機能しなくなった。この社会状況の変化は、生み出される作品の物語構造を、ムラ的な物語から都市的な物語に移行させることになり、この移行に伴って変化していったものの1つの一例として、サブカルチャーにおけるライトノベルを挙げる事が出来る。ライトノベルは都市化した社会の構造と、そうした社会における人々の要求を作品の中に持っている。

中でも、「セカイ系」と呼ばれるライトノベルの分野は、特徴的な物語構造の中に極端化した形の通過儀礼の要素を持っているのではないだろうかと言う仮説を立てた。そこで本稿は、現代において生み出されているライトノベルの分析を通して、通過儀礼を見出そうとするものである。

「セカイ系」での通過儀礼的な要素は、強調された非日常空間と日常空間の二極化と言う物語構造に表れていると考えられるが、これらの相反するカテゴリーは、儀礼的な空間の象徴であるかのごとく表現されている。こうした通過儀礼の領域の上に形成された物語が「セカイ系」の作品群の1つの側面であると言えるが、この儀礼的な非日常空間と不可分に構成される構造は、物語の作り手が無意識に作品に潜ませる現代の通過儀礼への意識であると言えるのではないだろうか。

ライトノベル「セカイ系」作品の通過儀礼的要素は、物語の構造を分析する事で得られると考えられる。そこで、通過儀礼と物語の関わりを、昔話とライトノベルを論じ、ライトノベル作品の物語構造の分析を行った。

技能伝承現場を支える構造−西富囃子のモノグラフを中心に−

小泉 一樹(ものつくり大学)

神奈川県藤沢市西富町一丁目に伝承される西富囃子は、戦争により途絶えたものの、昭和三十年代前半からの活動により、昭和四五年には市指定の無形民俗文化財となった。

かつて教わる子供の立場として、現在では子供に教える立場として西富囃子に関与する発表者は、本研究により西富囃子の技能伝承現場として夏期の子供への太鼓指導(練習会)に注目し、モノグラフ作成を通して、私自身の現場改善の可能性を探ることを目指した。

フィールドワーク先となる練習会には、西富町囃子保存会および子供会が関係する。保存会は現在、会員十六名の大半が六〇歳を超え、五〇歳未満はわずかに三名、うち二〇代は私一人である。保存会が太鼓指導する子供会は、町内の小学生が所属(平成二一年度は三四名)しており、そのうち十五名前後が練習会に参加している。盆休みを挟んで前後それぞれ五日程度ずつ毎晩一時間ほどの練習を経て、諏訪神社の夏祭り(八月)および藤沢市民まつり(九月)では山車に乗り演奏する。

保存会が伝承する六曲のうち、子供へは現在、ショウデン(小太鼓)とキュウバヤシ(小太鼓)の二曲を並行して教えている。ショウデン(小太鼓)を習得したと指導担当者から認定された子供は、ショウデン(大胴=大太鼓のこと)へと進むことができる。なお初参加の子供は、会長自ら口唱和で教えつつ、古タイヤを叩かせることから始める。

子供への太鼓指導は、保存会会長が交代するたびに変化が生じた。約十五年前の前々会長時には、ショウデン小太鼓・同大胴・キュウバヤシ小太鼓・同大胴の順に習得せねばならず、練習場所にも若干の違いがあり、本番の山車に乗るのもキュウバヤシ習得済みの子供が優先された。前会長時に緩和された練習に連動し、子供が山車に乗る条件も緩和された。

現会長時から練習後に反省点など話し合い、今年度も若干の改善を試みた。今後はより長期的観点からの練習環境整備が望まれる。