第842回談話会発表要旨(2009年6月14日)

シリーズ・さらば「民俗学」―新しい《民俗学》の再構築に向けて―(3)

概要

日本民俗学会と海外諸国の民俗研究者や団体との国際交流の実現に向けて、国際交流担当理事企画によるシリーズの第3回目の報告を行います。今回はフランスとスペインの民俗学を取りあげます。

民俗学から民族学へ―戦後フランス民族学の歴史と現在―

出口 雅敏(早稲田大学人間総合研究センター客員研究員)

 フランス民俗学に対する日本民俗学の関心は、第二次世界大戦をはさんで途切れてしまったような感がある。「民間伝承」という言葉がフランス語のTradition populaireに由来し、ジュネップ(1873-1957)やサンティーヴ(1870-1935)といった著名なフランス民俗学者の著作が、戦前、後藤興善や山口貞夫の手によって翻訳されるなど、草創期の日本民俗学は同時代のフランス民俗学に対して旺盛な方法論的関心を示していた。ところが戦後、欧米民俗学に対する関心は間歇的にみられたが、その場合は、ドイツ・オーストリア民俗学やアメリカ民俗学などに限定されてきた。

 フランス民俗学に対する戦後日本民俗学の無関心ぶりは、だが、故なきことではない。戦後、フランス民俗学はフランス民族学(Ethnologie françaiseあるいはEthnologie de la France)に変貌してしまったからである。フランス民俗学はその学的輪郭を失い、「フランス民族学」の名のもとに人類学や社会学、歴史学など隣接諸科学と方法論的基盤を共有するフランス地域研究に吸収・統合・再生されたのである。これは、フランス国内の学問状況を勘案するならば、むしろ自然な帰結だったといえる。戦前すでに、批判的方法意識と強靭な方法論を備えて登場したフランス社会学派(デュルケム)、民族誌学派(モース)、アナール学派(ブロック)など、民俗学は隣接諸科学の発する強力な磁場に巻き込まれ、学的独立の解体を余儀なくされた。フランス民俗学会も1920年代には生まれたが、数年で消滅してしまった。

 フランス民俗学の大成者であるジュネップの民俗学観にもすでに、民俗学から民族学への転回を促す視点が胚胎されていた。デュルケムやモースとは決して良好とは言えない関係にあったジュネップではあるが、若い頃はマダガスカルやオーストラリアの宗教研究に打ち込み、フランス民俗学にその関心を移してからも、「民俗学は、ヨーロッパ農村の民族誌学」であり、「社会科学としての民俗学」を主張し、残存説から脱却した「現在の学」を志向していたという点で、同時代の社会学や人類学とすでに視座を共有していたといえよう。

 もちろん、アカデミズム志向の強い「中央」と、地域主義との関係が深い「地方」の学問状況とでは、以上の民俗学の展開に違いもみられる。19世紀、中央集権化の遅れたドイツで一国民俗学が形成された事情とは裏腹に、それをいち早く達成していたフランスでは、むしろ中央に対する文化的反発を背景に、地域主義的民俗学が形成される土壌が地方にはかつてからあった(ただし、この点は両義的であり、フランス民俗学がフランス文化の多様性をキーワードとするフランス民族学に移行する素地にもなった)。それゆえ、パリでの民俗学から民族学への変身をよそに、地方では伝統的民俗学が命脈を保つという時期が戦後もしばらくは続いた。

 とはいえ、民俗学から民族学への吸収・統合・再生、という学史上の太い線は変わらない。それは、フランス民俗学の主要学術誌の変遷、系譜関係を辿ってみても明らかである。戦前には、セビヨによる『民間伝承』、サンティーヴとジュネップによる『フランスの民俗』、リヴィエールによる『農民の民俗』、などが民俗学の主要学術誌として発刊・廃刊を繰り返してきた。そして戦争による一時的中断をはさみ、戦後も1950年代初頭までは、ジュネップによる『生ける民俗』やその後続誌『新・民間伝承』が続いた。だが、戦後すぐに創設されるフランス民族誌学会(後に、フランス民族学会)によって『フランス民族誌学会年報』が、次いで、従来の民俗学主要学術誌を後継する媒体として『芸術と民間伝承』(1953-1970)が発刊される。そして、それを直接の継続前誌とする『フランス民族学』(1971-)が創刊され、現在に至るのである。

 ところで、この『フランス民族学』の創刊は、パリ・ブーロニュの森近くにある「民間伝承芸術博物館」の設立(1972)に合わせたものであった。フランス民族学の研究拠点も併設されたこの施設は、1937年、人類博物館内に「フランス展示室」が設けられたことを直接の起源としている。そして、「人類博物館は世界各地の民族文化を、民間伝承芸術博物館はフランスの民族(民俗)文化を」という役割分担を担ってきた。だが現在、それも大きく変わろうとしている。というのも、民間伝承芸術博物館は2005年をもって閉館し、これを前身施設とする新たな博物館・研究拠点がマルセイユに移転、2012年の開館を予定しているからである。博物館の名称も、「ヨーロッパ・地中海文明博物館」へと改められる。これは、フランス民族学にとって第二の転回点になるはずだ。現代大衆文化を含めたヨーロッパ・地中海地域の民俗文化がクローズアップされ、フランス民俗文化もその中に位置づけられてゆくことになる。

 このように、戦前の民俗学から戦後の民族学へと自己変貌させてきた歴史をもつフランス民族学であるが、21世紀の現在も再び、新たな転換期(=挑戦)を迎えているのである。

「地域学」としての民俗文化研究―スペインの民俗学、民族学、人類学

竹中宏子

 現在スペインでは、民俗学は学問の一分野としてみなされていないに等しい。いわゆる伝統文化、民俗文化に関する研究は、人類学が扱う領域とされる。しかし、かつてはスペインにおいても民俗学が存在し、非常に活発に活動していた歴史がある。本発表ではこのようなスペインにおける民俗文化研究についての歴史的変遷(19 世紀末から現在まで)を報告し、民俗文化研究の現在を考察した。

 1878年イギリス・ロンドンでFolklore Societyが設立されると、アントニオ・マチャード・イ・アルバレス(Antonio Machado y Álvarez;以下、マチャードと略記)はいち早くロンドンと連絡をとり、1881年にはスペイン民俗学会に当たるエル・フォルクローレ・エスパニョール(El Folk-lore Español)を創設した。これは、ヨーロッパ域内でも非常に早い時期にスペインに民俗学が導入されたことを意味する。そこでは「民衆の知の収集」が主な目的とされていた。

 マチャードが中心となったエル・フォルクローレ・エスパニョールは、地方または地域ごとに同様の研究所をつくるという方針をもっていた。彼自身はアンダルシア地方を中心に活動を展開し、1882年にエル・フォルクローレ・アンダルス(El Folk-lore Andaluz)を設立、同名の雑誌の刊行も始めた。そこから同様の運動がスペイン各地で展開される。しかし、このような民俗学の隆盛は、スペイン国内でも南部(アンダルシア地方とエストレマドゥーラ地方)に限られており、また、その期間も短いものであった。1893年にマチャードが亡くなると、活動の中心はマドリッドに移るが、その活動内容は各地に送る質問表の作成に限定されていく。ただし、マチャードらが残した成果は後のスペイン民族学・人類学に影響を与えるものであった。

 スペインの民俗学にはもう一つの流れがあった。それはマチャードが活躍した南部とは異なるガリシア地方、バスク地方、カタルーニャ地方のような北部においてみられた。それはロマン主義的影響を受け、中世の王国時代を評価し、地方アイデンティティの復活と関係するようなドイツ哲学を基礎とする民俗学であった。

 スペインにおけるこれら2つの潮流を整理すると、マチャードの民俗学が博物館学を基礎とし、自由主義的で「スペイン的」であるのに対し、北部のそれは地方主義的民俗学とも呼び得るもので、保守的な要素が強かった。共通していたのは、主に質問表をインフォーマントに送ってそのデータを分析する方法であり、また「パートタイムでアマチュア的」な点であった。このような特徴から、スペイン民俗学は20 世紀に入ると、アカデミズムに認知され高等教育機関で教育される民族学に取って代わられ、在野に位置づけられていくことになる。

 民俗学より学術的と考えられた民族学ではあるが、先史学・考古学・古代史と比べるとその位置は低かった。その結果、民族学の最大の関心事は「未開」文化となり、つまり主として「田舎」の民俗文化を扱う分野となっていった。民族学者の活躍の場は、高等教育機関におけるよりも博物館であった。これは、時に民俗学者の活動と重なることを意味する。しかし両者にはあくまで相違があり、民族学は民俗学よりアカデミックだったのである。確かに、フィールドワークそしてそれに基づく民族誌に関する理論・方法論は飛躍的に展開し、成熟・洗練されたものとなった。

 スペイン民族学にとっては1968年が大きな転機となる。クラウディオ・エステバ=ファブレガット(Claudio Esteva-Fabregat)がバルセロナ大学で「民族学」の教授職を得ることになった年だからである。その結果、民族学は先史学から独立した学問分野の一つとして確立されたことになる。

 しかし、同じ1968年は、スペイン人類学にとっても重要な年であった。すなわち、この年以降スペインの大学教育では一気に人類学の名が上げられるようになったのである。そして、1971年には先のエステバ=ファブレガットが同じバルセロナ大学で「文化人類学」を教えることになり、1979年にはカルメロ・リソン・トロサーナ(Carmelo Lisón Tolosana)がマドリッド大学で「社会人類学」のポストに就くことになった。ここからも理解できる通り、民俗学や民族学と比べて、スペイン人類学は導入当初から学問として制度化していたのである。

 スペイン人類学の最大の特徴は、地域との結びつきが強い点である。つまり、大学や研究所が研究の場の中心となるが、それらが属す自治州が調査対象の範囲であるのが普通だ。人類学会は基本的に自治州ごとにつくられており、日本文化人類学会と同様の機能をもつ、いわゆる「スペイン人類学会」は存在しない。自治州ごとの人類学会が基礎となるスペイン人類学会連合が最も近い組織であろう。自治州はかつて「地方」と呼ばれており、この学会のあり方はマチャードが進めた地方ごとに研究所を置いた民俗学を想起させるものでもある。つまり、地域(地方)を研究する―少なくとも地域(地方)をフィールドの範囲とする―学問が、スペイン人類学といっても過言でなかろう。人類学がスペインに導入されてから、一部の例外を除いて常に、人類学はスペイン国内を研究する学問でもあった。

 スペイン人類学史において特筆すべきは、スペインの研究を外国人のみに任せていられないとし、マリア・カテドラ・トマス(María Cátedra Tomás)を中心とする当時の若手研究者によって独自の理論や方法論が模索された動きがみられたことである(1980年代末から1990年代)。これは、調査される側から自ら発信する立場への転換であり、ピット=リバース著の『シエラの人びと』を代表とするアングロサクソン系人類学者に対するコンプレックスを克服する動きでもあった。そこではスペイン人がどのように外国人研究者から見られていたかがアングロサクソン系人類学者とスペイン人人類学者の両方から検討され、ネイティヴの側からどのように研究するかが模索されている。つまり、スペイン人類学は、海外からの視点も取り入れ/批判しながら常に国内研究の学としてのあり方を探究してきたのである。

 このような状況において、民俗学の成果を評価し人類学的な民俗文化研究に取り入れようとする立場もみられる。それは歴史性を看過しがちな人類学に対する批判でもあり内省でもある。先に挙げた北部と南部でそれぞれに展開された民俗学もスペイン人類学史の一部とみなされているが、言い換えれば民俗学と人類学には連続性があり、現在の民俗文化研究において混合・融合の状態にあるとも理解できるだろう。