第840回談話会発表要旨(2009年3月8日)

2008年度 民俗学関係卒業論文発表会

伊豆大島泉津における共有財産所有(財産区)の歴史と意義

渡邉 淳(首都大学東京都市教養学部都市教養学科 人文・社会系社会学コース社会人類学分野)

 本論文は、伊豆大島における地区の独自性と相互の関係性に関心をもった発表者が、2008年度に4回(7・8・9・12月)、計20日間実施した現地調査を基にしている。

 泉津地区では、江戸時代の年貢制度に起因する「山方(やまかた)」・「浦方(うらかた)」という産業分担構造の影響を受け、1960年台まで製炭業が営まれていた。製炭業者は、木炭の材料を供給する一定規模の山林を求め、泉津の山林中を移動した。移動の度に炭窯が築造され、同業者間の労力交換が実施された。製炭業者が泉津の土地と山林を共同利用できることは、製炭業を成立させる要件となっていた。

 1955年の大島旧六ヶ村の合併に伴う財産区の設置は、山方の3村が共同利用してきた、土地・山林を主とする村有財産について、合併後も当該地区の下での所有を認めたものである。

 泉津財産区の設置当時になされた主張通りに、泉津の製炭業において財産区の土地・山林が共同利用された実質的な期間は限定的であった。泉津財産区と製炭業との関係性が失われた今日、財産運営の指針「泉津地区と大島町の公益への貢献」に立脚した、泉津の人々による土地・山林の利用状況が存在することが明らかになった。例えば、財産区有地の貸付に伴う地代収入は、公共施設の建設・維持・管理費への充当や、財産区による山林の管理作業に参加した泉津の人々に支給される日当などを通じ、地区へ還元がなされている。泉津の土地・山林の利用形態は、製炭業を中心とした従来の直接的共同利用から、公益性を重視した間接的共同利用に移行したといえる。

 泉津の人々が財産区に見出す意義とは、1つに泉津の人々の生活に関わり、継続的に利益をもたらしてきた、泉津の共有財産としての土地・山林の維持である。もう1つは、山方としての歴史を擁する泉津で営まれた、製炭業を主とする生業が刻み込んできた、泉津の人々の土地・山林に対する記憶の具現化であると発表者は考える。

安比川流域における家格の維持

水谷 恵美(弘前大学人文学部人間文化課程)

 発表では、岩手県安比川流域において、旧家が近現代を通じてどのように家格を維持してきたかを検討した。調査対象とした地域には、旧家が名子と呼ばれる奉公人を擁する慣行があった。この慣行は、農地改革後、解消されたとされていた。

 第一に、旧家におけるそれぞれの家の歴史を確認した。ここでは、旧家同士で歴史認識に葛藤があるということを捉えた。また、旧家がそれぞれ自家の「歴史書」を編むという形で「歴史」を示していることも明らかになった。

 第二に、旧家の生業の変遷を確認した。旧家は、農地改革、世代交代によって農業経営から公務員へと主な生業を変えていた。近年まで農業に携わっていた家では、旧名子との結びつきが強かった。しかし、農業から離れて久しい家でも、旧名子との結びつきが強い家を見ることができた。この家では、旧名子を新しい生業に組み込むことによって、その関係性を再構築していた。また、旧家の子どもは、教員や役場職員、学校事務など、教育に関わる職業に就いていることがわかる。教育に関わる職業に就くは、旧家が権威性を保つひとつの要因になっていると推測することができる。

 第三に、常会と冠婚葬祭における座順を確認した。昭和20年頃まで、常会では家柄によって座順が決まっていた。また、現在は、集落の家の冠婚葬祭に旧家の当主が招かれて上席についている。

 第四に、旧名子との関係性を再構築していた家では、村氏神となる神を勧請してきたという歴史を持っていた。それだけではなく、自家が勧請してきた別の神社に対して、近年、祭日を定めて拝礼を始めた。このことから、現在でも神社祭祀に対し関与していることがわかった。

 以上のことから、旧家側から積極的な働きかけをしている家が、現在でもとりわけ高い家格を維持してきていることが明らかになった。よって、安比川流域の旧家は教育や歴史、神社祭祀といったことに関わることで家格を維持してきたと考えることができる。

葬送習俗「正月女」の伝承―高知県における葬儀社の介在―

樋口 かほり(高知大学)

 本論のテーマとなっている「正月女」とは高知県を中心に分布する、友引に関する葬送習俗の一つであり「正月に女が死ぬと、部落の者を引いていく」という俗信、及びそれに付随する「部落の女が四辻に集まり、辻祭りをする」などの友引を避ける為の様々な作法を指す。 

 筆者は「正月女が現在どのような形で伝承され、存続しているのか」という課題を解決する為に、葬儀社を対象に調査を行った。部落内の地域共同体に代わり、現在葬儀を執り行なっているのが葬儀社である。

 高知県下五十八社を対象に電話調査を行った結果、五十八社のうち二十五社が「正月に女性が亡くなったら、葬儀社は自発的に厄除けの準備をしておく」という回答した。さらに、葬儀社の介入の度合いが高い地域ほど「身代わりの人形を納棺する」という厄除け作法に画一化しているという結果となった。

 正月女の厄除けの作法には「部落内で辻祭りをする」などの地域共同体の機能していなければ成立しないタイプのものと、「人形を納棺する」などの地域共同体の機能なしに成立できるものがある。前者のようなタイプの厄除けは地域共同体が成立している限りは伝承され続けると言えよう。後者は葬儀社が勧める人形の納棺に当てはまり、現在の葬儀のあり方と呼応していると言える。

 この正月女の葬送習俗は、葬儀社の介在によって地域共同体という土台なしに成立可能で、かつ手軽な「人形を納棺する」という形に変化し、存続しているようである。習俗に実際に触れる「当事者」の間で伝承され続けていた文化が葬儀社という企業の商業ルートに乗り、それとして相応しい形に変容したとも言える。それが広く人々の間で広まっているのを見ると、おそらくこれは古来の民間習俗が存続する一つの新しい手段であるといえよう。

<参考文献>

  • 桂井和雄(1973)『俗信の民俗』(シリーズ<民俗民芸双書>79)岩崎美術社
  • 小谷みどり(2000)『変わるお葬式、消えるお墓―最期まで自分らしく―』(シリーズ<高齢社会の手引き>)岩波書店
  • 福澤昭司(2002)「葬儀社の進出と葬儀の変容―松本市を事例として―」『葬儀と墓の現在―民俗の変容―』吉川弘文館pp93−113

祖先祭祀からみた現代社会における家族像 ―長野県安曇野市三郷周辺の墓地調査を事例に―

津金 彩子(成城大学文芸学部文化史学科)

 戦後の民法改正と産業構造の変化により、家族は大きく変化した。多くの若者が都市部に出て、一世代限りの核家族が普及したにも関わらず、その後も墓は家族を単位として建立され、現在でも祖先祭祀は家族の手によって永続的に行われることが理想とされている。

 そこで、長野県安曇野市三郷周辺にある乗譲山金龍寺と市営黒沢霊園での墓地調査と、同市在住の4つの家族への聞き取り調査から、現在の家族がどのように祖先祭祀を行っているか、また祭祀を行う家族にどのような意識の変化が現れているのかを検証した。

 調査の結果、寿陵や建立者名を夫婦連名にする墓の増加や、墓碑銘をオリジナルの文字にする墓、親の遺骨を郷里から移動していると思われる墓の存在が確認できた。一方、聞き取り調査から、現在の祭祀が近親追憶祭祀になっている点や、親は子に迷惑をかけないよう気を使うが、子は親の思いに気づき、将来の墓に対して責任を感じるなど、互いに思い合っている点も理解できた。

 このような現象が起こっているのは、1980年以降の家族の個人化と1990年以降の少子・高齢化の影響が大きいと考えられる。親子が別居するだけでなく、各々のライフスタイルが尊重されたことで、親は子に迷惑をかけたくないという思いが強くなり、近年の墓の変化につながっていると思われる。

 よって、祖先祭祀に関しては、夫婦双方の親を家族として捉える夫婦双方の親子関係の構築や、子が少ないからこそ、兄弟・姉妹間の協力がますます必要になってきている。加えて、祖先祭祀に代表される盆は、単に祖先の供養だけでなく、年に一度、家族が集い、自身のルーツや家族の存在を確認する場という新たな役割も果たしている。家族の規模が縮小し、個人化している現代だからこそ、親子・夫婦・兄弟など、家族の相互理解が必要なのであり、死後、同じ墓に入ることで、家族としてのつながりを再認識しようとしているのが現在の家族の姿だと考えられる。

遊びにみる子供の創造力−鬼ごっこの多様性から−

水野 真由(愛知学院大学)

 子供の頃から身近だった「鬼ごっこ」の多様性そして、そこから子供の創造力に注目したい。20歳、21歳を中心とする男子8名、女子15名の計23名を対象にアンケート調査を進めた。調査から32種の名称が収集できたが、遊戯内容の基本ルールの面からそれらを整理すると、(1)狭義での鬼ごっこ(2)影鬼(3)缶ケリ(4)ポコペン(5)増え鬼(6)どろけん(7)氷鬼(8)高鬼(9)色鬼(10)かくれんぼ(11)その他という11類型が設定できた。

 まず、性差については 11種の鬼ごっこの中で回答は、缶けりが63.5%、増え鬼は80%が男子であり、反対に氷鬼が81%かくれんぼは67%が女子と、比率に偏りがみられた。体をよく動かすものは男子、そうでないものは女子が多いことがわかる。

 なお、鬼ごっこには、「アブラムシ」とか「たまごルール」と呼ばれるハンディも設けられている。アブラムシは年下の子と一緒に遊ぶ時、あまりにも小さい子が相手ならば、その子は鬼になることはない。たまごルールは、小さい子と鬼ごっこをした場合、小さい子へは2回タッチされないと鬼を交代するととがないというルールである。この2例とも年下の子への配慮にもとづくものといえる。このことから鬼ごっこは年齢の異なる子供の間で遊ぶことが多く、こうした年齢差が特殊ルールを生んでいることがわかる。いくつもの基本ルールに様々な特殊ルールが加わり、実に多様なバリエーションが生まれている。

 子供の命名カは豊かで、高鬼を「たかたか鬼」や「たかたか坊や」と呼称する例も見られた。以上のような年齢差、性差、名称差に加え、楽しみのための新ルールの追加、サイクルの効率化の工夫などの諸要素が指摘できた。これらが多くのバリエーションを生み続けているものといえる。以上のことから、鬼ごっこには子供たちの創造力を高めていく大きな機能があるといえ、子供の創造力の豊かさを実感することができる。

公衆浴場業者の故郷をめぐる民俗学的考察

村主 実穂(筑波大学)

 公衆浴場業に関する先行研究は様々あるが、その成果のひとつが、新潟や北陸出身の浴場業者が再生産されるという一連の指摘である。明治時代頃より出稼ぎの出郷者が浴場経営に着手するようになり、大正期には、そこでの成功者を「つて」として郷里から上京した者が、各々の浴場で奉公し経験を積んで独立を目指す、という連鎖移動の構図ができあがったという。本論文では、公衆浴場業者の同郷関係を中心とした存続のあり方について、東京都における事例を検証し考察した。

 同郷者を前提とする徒弟関係のなかで被雇用者である三助の身分から独立するためには、奉公先の親分から暖簾分けや融資をされて賃貸の湯屋を持ち、自身の浴場を持てるまで資金を蓄える方法が一般的であり、親分との関係が重要であった。しかし、筆者の調査した都内のある浴場業者は、親分筋を持たず、自身の開拓した縁で独立に成功していた。

 また、浴場業は浮き沈みの激しい職業とされ銀行の融資が受けにくかったことから、都内公衆浴場業界においても親類縁者などの間で無尽が行われた。しかし筆者が実際に見学した事例では、無尽本来の目的である講金を受け取る人が出ないという異常事態が起こった。今日では、余興として本クジの他に行われる花クジや、親睦の面に意義が移行しているといえる。

 確かに、公衆浴場の最盛期である昭和40年代頃までは同郷のつながりによる互助で浴場業者が存続してきたことは間違いない。しかし、現在の経営者は北陸出身者の子や孫の世代であり、最早「公衆浴場経営者には新潟・北陸出身者が多い」こと自体が現状とはかけ離れている。従来の浴場業研究はいささか同郷を強調しすぎてきたのではないだろうか。筆者の調査した2つの事例からわかるように、公衆浴場業者もかつての存続原理に頼らず、同郷のつながりを乗り越えようとしている。現在においてはむしろ同業者という横のつながりが重要になっている。

宮古島・島尻のパーントゥの研究

芝入 章文(国学院大学)

 宮古島・島尻では旧暦九月の吉日を二日間選定してパーントゥ・プナハと呼ばれる厄払いの行事が行われている。その日には親・中・子の三体の神が「ンマリガー」という異界へ通じる泉から出現し、体に蔓草を巻き、その上に泉の泥をつけて村の拝所である四つのムトゥを廻りながら逃げる人々を追い駆け、人々に泥を付ける。終わると村外れで合流し、海の彼方へ帰るという行事である。パーントゥに泥を付けられた人は無病息災になると言われており、この行事の始源は昔、村付近の浜に仮面が流れ着いた事に由来するという。

 この前日には、一種の結界の役割を持つ、豚骨を付けた縄を村の入口に張り、悪病や悪魔の侵入を防止、また侵入したそれらをパーントゥにより排除する目的を持つスマッサリの行事が行われる。この縄はパーントゥの蔓草を固定するのにも使用される。

 「ムトゥ」とは元来「本家」を意味すると言われている。ムトゥにはフツ、トゥマズヤー、ウプヤー、ツツの四つがある。フツムトゥのみ島尻集落発祥の地とされる元島にあり、それ以外は現集落内にある。集落内の各ムトゥには住人がおり、その中でもウプヤーだけは何度が変っている。この事から元来ムトゥとはその家の家系が重要であったが、現在ではその家がある場所自体を指している。名称は昔も現在も同じムトゥとは言っても人々が認識する対象は変化している。

 また二〇〇七年現在、島尻祭祀の中心となる神女は存在しない。その為、祭祀当日の島尻の女性による儀礼も途絶した。それは島尻の祭祀の中心である神女達が死去して神役組織自体が崩壊し、従来存在していた神女継承などのシステムが維持出来なくなり、集団的な祭祀から神役組織並びに神女や主婦による儀礼等がなくなったといえる。

 今回は現地調査を基にしてパーントゥは右の二点が大きく変化しているという事を明らかにした。

日本のマンガ・アニメの中の『ドラえもん』〜東アジアを通して〜

高橋 亮(慶應義塾大学文学部社会学専攻)

 『ドラえもん』は1969年より藤子・F・不二雄によって連載が開始されたマンガ作品である。そのマンガ作品を原作として1979年から開始されたテレビアニメは現在も放送が続けられ、長編映画も1980年からほぼ毎年春に公開され、例年数百万人の観客動員と数十億円台の配給収入を維持する大ヒットシリーズとなっている。

 こういった日本国内での人気はもとより世界各地、特に東アジア・東南アジアでの『ドラえもん』人気は以前からかなり根強い。今までにアニメ放送がされた国は30カ国にも及び、2008年に外務省がドラえもんをアニメ文化大使に起用したほどだ。

 ところが数多くの日本製のマンガ・アニメが欧米などでも人気を得ているのに対して、欧米では『ドラえもん』の進出した国が限られ、あまり知られていない。これは日本のマンガ・アニメが受容される経緯が地域によって異なっていることが大きいと思われる。アジアでは日本の出版元の許諾を得ない海賊版によってマンガ・アニメが普及し、子供でも容易に手に入ることができた。一方、欧米では海賊版の入り込む余地がなかったため、インターネットや同人誌など個人間のネットワークを介して普及した。そういったネットワークには子供は参加できず、主に子供向けの『ドラえもん』は人気を得られなかったと考えられる。

 また世界各国で『ドラえもん』のマンガが出版されるに当たって、単に言葉などの問題だけでなく絵などが改められる場合がある。例えば韓国の場合は文字が横書きで書かれているため、日本とは左右反転した左綴じで印刷され、日本の地名が登場するシーンでは韓国の地名に変えられている。そして日本語ならではのダジャレを入れた話ではうまく韓国語に合うように訳されている場合もあるが、全く無視して面白さが消滅している場合もある。マレーシアでは宗教上の理由から、女性の裸が登場するシーンに服を着せるなど修正を施している。

アイデンティティ・ポリティクスを超えた連帯の可能性−沖縄における新基地建設反対運動をめぐって−

川北 慧(成城大学)

 本報告では、沖縄県名護市辺野古区における新基地建設反対運動に焦点を当て、基地を押し付ける「日本人」と押し付けられる「沖縄住民」両者が参加する運動内部において、どのようなアイデンティティ・ポリティクスが覚醒ないし顕在化したかを明らかにする。

 このような「開発」をめぐっては、開発される社会内部においてどのような変化がもたらされるかについての調査が蓄積されてきた。しかし、開発する/されるという二項対立がもたらす、分かちがたい「差異」についての本質的な議論は、近年注目されはじめたばかりである。そのため本報告では、運動内部において顕在化するアイデンティティ・ポリティクスに注目し、そのような二元論的なアイデンティティ・ポリティクスがいかに克服され、「日本人」と「沖縄住民」の連帯につながっていくのか検討する。

 現地でフィールドワークを行った結果、1)辺野古区における運動は「生活の水準」からみた現地の「沖縄住民」による抵抗・交渉としての側面と、「政治の水準」からみた外部の「日本人」による反基地・平和運動としての側面から成り立っていること、2)外部の日本人は、「政治の水準」を強調する運動を展開し、次第に主体性を獲得するようになっていったこと、3)あくまでも「生活の水準」に留まらざるを得ない沖縄住民は、新基地建設に反対の意思を持ちながらも、本質主義的なアイデンティティ・ポリティクスが強調される外部の日本人主体の運動から遠ざかるようになること、その一方で、4)運動から身を引いた沖縄住民と外部の日本人は、日常的実践を通して新たな「共同性」を生み出し、「生活の水準」と「政治の水準」の接合を図っていることが明らかになった。

 以上の諸点を踏まえ、異なる水準を接合させる日常的な生活実践としてのしなやかな「共同性」の中にこそ、二元論的なアイデンティティ・ポリティクスを超える新たな連帯の可能性があると結論付ける。

日本女性とブラジャー

寺井 史(お茶の水女子大学)

 戦後60年あまりの間に目覚しい速度で進歩を遂げた日本の下着市場では、今日様々な商品が展開されており、消費者の選択肢は膨大な数にのぼる。しかし、充実した商品の中にあっても、いまだ正しいサイズや着用方を知らず、着心地の良い下着と付き合えているわけではない女性は多い。本論文はそのような現状に疑問を持ち、ほとんどの女性が身に着けており、且つフィッティングが特に重要となるブラジャーについて考察するものである。

 ワコールが取引先に配信した冊子『ワコールニュース』の記事を中心に、日本のブラジャーや身体感の変化、ブラジャーの普及の過程を辿り、また島根県浜田市での高齢者への聞き書き調査によって詳細な事例を記録した。さらに、アンケート調査を行い、ブラジャーの現状について考察した。

 雑誌記事と聞き書き調査から、日本においてブラジャーが実際に日用品として定着したのは1970年代のことであり、それ以前のブラジャーはお洒落の要素が強く、経済的な要因も絡む流行品であったことが明らかとなった。日本では長らく、胸を押えて隠す和装の習慣があったため、ブラジャーの普及には平面的な身体感から立体的な身体感への変化が伴った。

 また、アンケートの調査結果からは、初めてのブラジャーを買い与えることが母親の役目として定着しているにも関わらず、母親が十分な知識を持っていないことや、試着やフィッティングの習慣が十分に定着していないことなどが判明した。日本で習慣化したブラジャーであるが、まだ本当の意味では定着したと言い難い。

 この現状を解決するには、日常に溶け込んでしまったブラジャーや女性の身体に今一度意識を向ける必要があり、特に母から娘への伝承が定着した現在では、母親が十分な知識を身に付け、娘への指導者の役割を担えるようになることが、有効な解決策だと考えられる。

食品保存と収納空間の変容―電気冷蔵庫の登場―

嶋田 明日華(お茶の水女子大学)

 本論文は電気冷蔵庫という1つの道具を取り上げ、その生活にもたらしたものや役割について探求し、日常の食生活や暮しの変化を明らかにすることを目的としたものである。

 従来、高度経済成長以降の暮しや家電製品に関する研究は寡少であり、家電製品という道具を使う生活者と道具との関連性は看過されていたといえよう。そこで、本論文では聞き取り調査・アンケート調査による生活者の証言や実情の収集・記録を踏まえ、考察した。

 第一に、電気冷蔵庫の役割の変化について明らかにした。

 本格的な普及以前は「ものを腐らせないでしまっておく衛生的な道具」として存在し、一部の人にしか手が届かなかった時代(昭和30年代前半、普及率5%未満)は「ステイタスシンボルとしての道具」としてその存在にこそ価値があった。昭和40年代後半に普及率が90%を超えると、「食品の収納庫」として、加えて、近年では「おいしさを保つ道具」として変化した。

 その背景には、政府・企業が主導した政策や技術の革新などが存在すると同時に、電気冷蔵庫が「神器・生活必需品である」という消費者の思い込みが存在することを指摘した。

 第二に、神器・流行から生活必需品と化した電気冷蔵庫が生活にもたらしたものについて明らかにした。

 一つに、普及以前に存在した、ものを冷やす、腐敗を防ぐ方法の減少・消失である。結果として、(1)「必要なものをその都度買い、使い切る消費行動」が「まとめ買い」へと移行したこと、(2)冷たさの急速な浸透が、暑い夏に冷たさを享受する庶民のささやかな楽しみを消す逆説的な結果を招いたことを指摘した。

 二つに、これまで外部に散在していた食品の台所への集中移動があり、調査により電気冷蔵庫の使われ方の実情を示した。

 結論として、今日の食生活や消費行動の変化の背景には電気冷蔵庫という1つの道具が少なからず影響しており、道具に依拠した生活を営む以上、そのものが生活を合理化も制限をもし得ることを提言した。

水をめぐる民俗誌―長野市田子の事例から―

堀 菜美(新潟大学人文学部)

 従来民俗学では、資源利用の実態やそこに見える工夫を読み取ろうとする研究が多く行われてきた。しかしそれらの研究は、利用される資源や利用法を限定しているものが多い。

 水利用の実態を正解に捉えるには、ムラに存在する複数の水資源の多岐にわたる利用法や、利用法の相互関係性にも注目する必要がある。そこで本稿では資源や水利用法を限定せず、ムラの水利用の実態を総体的に把握し、地域の水利用の特徴と資源利用の実態を明らかにする。

 調査地である長野県長野市田子は、溜池、川、湧水という複数の水資源に恵まれ、それらを多様に利用しながら生活していた。水資源の中で特徴的な利用形態を見せた田子神社の清水は水質よく、水量の豊富な水で、水田用水や生活用水、酒造、雨乞いなど様々な用途に利用された。溜池や川などは他村も利用したため、自村で比較的自由に利用できる清水はムラの水田を支える重要な資源であった。そのため、清水は一部の者が利用を独占しないような利用形態となっている。水田用水として利用しない者は、生活用水として利用できる特権を持っていた。このように、清水は共有の資源として人々の生活を支えているのと同時に、複雑な利用形態は他資源の利用にも影響を与えていた。ムラの水利用は清水を中心に構成されているといえる。清水の田から開発が進んだ点や雨乞いに利用された点から、ムラの根幹に清水が位置していることも指摘できる。

 また、田子の事例より、一つの水資源は様々に利用されており、利用方法は一つに固定されないことがわかる。それぞれの利用には複数の暗黙の決まりが存在し、利用は一つの決まりは自然や社会関係などの状況の都合に応じて存在する。ムラの資源利用の実態は、一つの資源に複数の利用法が存在し、決まりが重層して働くといえる。

ライブハウスの現状と歴史についての基礎的研究

岩澤 友作(ものつくり大学)

 高校入学以来、当初は客として、そのうちに出演者として、大学入学以降の最近ではアルバイトの一員としても私が関与し続けている「ライブハウス」という場所は、宮入恭平『ライブハウス文化論』(青弓社、二〇〇八)まで研究がほぼ皆無であった。宮入によってライブハウスの現状と歴史はほぼ概略を知ることができるが、ライブハウスに日常的に関与している当事者である私にとっては、物足りない記述が多い。そこで本研究では、ライブハウスを職場とした経験および古い雑誌記事に基づき、宮入の研究を補完することを試みた。

 ライブハウスの現状について宮入は、出演者(バンド)と経営者(店)との関係について言及しているものの、日常的に頻発するトラブルとその応対について全く触れていない。私の経験によれば、注文を受けたドリンクの材料がなくなれば近所のコンビニへ買い出し・音響設備が破損すれば近くのスタジオから持ち出し等、トラブルを前提とした日常が繰り返されている。また関係者へのインタビューから、警察も含めた近所付き合いに配慮していることがうかがえた。

 ライブハウスの歴史について宮入は、インタビューと二〇〇〇年以降の雑誌記事に基づき、ジャズ喫茶からロック喫茶、そしてライブハウスへの変遷を示した。しかし大宅壮一文庫の所蔵雑誌記事に基づいて検討したところ、さまざまな名称の場所が、ライブハウス的な場所として存在していたことが明らかになった。

 二〇〇八年現在、インタビューを通して、ライブハウスの現状を調査したところ、ライブハウスは増加し続けているが、バンド自体は減少していることがわかった。それにより平日のスケジュールが白紙に近く営業が困難になっているライブハウスもある。これもまたライブハウスの現状である。

 以上の現状と歴史を踏まえた上で、今後のライブハウスが、どのように移り変わっていくのか、これからも継続して関与していきたい。

つくられる名産品とその民俗的背景―新潟の笹だんごを事例として―

薄田 知世(東北学院大学文学部歴史学科)

 本稿は新潟県中越、下越地方で親しまれてきた笹団子を事例として、地域の暮らしの中に立った時に、笹団子はどのような経緯で今日の新潟を代表する名産品へと変遷していったのか、またそれに対する民俗的背景を考察したものである。

 第一章では、調査地である新潟市の概要と農業の展開をまとめ、第二章では笹団子の概要と様々な起源説、特に今日有名な上杉謙信にまつわる説が、名産品化の中で笹だんごの正統性を主張するために付随されていったものと考察した。第三章では笹団子が家庭で手作りされていた昭和三十年代の農村の市内木場地区と商業地の市内沼垂地区の事例をもとに、笹団子の持つ独自性とその役割を述べ、笹団子を手作りする家庭が減っていった原因を、昭和三十年代に推し進められた農業、商業など各種産業構造の変化によるものと指摘した。第四章では笹団子が名産品化された経緯を、その歴史的背景と共に、地域に生きる人びとの暮らしのあり方によって左右されてきたことを主張し、笹だんごが人間関係の範囲が広域化した社会変化の流れに対応したため、新潟名物としての地位を確立できた可能性を考察している。さらに、現在の笹だんごを取り巻く状況を通してみえてきた今日の新潟の人びとが抱く思いや葛藤についても検討を試みた。

 笹団子の名産品化からは新潟に生きる人びとの暮らしの変化と諸相を見ることができる。このような民俗的背景は、地域に暮らす人びとの目線に立ち、そこ存在する様々な思いや葛藤ともしっかり向き合っていかないことには、民俗そのものが包有する本来の歴史性や独自性を見出すことができないのではないかという、民俗的背景を考察する上で、地域の暮らしの目線に立つことの重要性を本稿では指摘した。

「民族舞踊/民俗芸能」の現代史―大川平荒馬踊りを事例に

西嶋 一泰(立命館大学文学部学際プログラム)

 民俗芸能の現代史を再考するために、「民族舞踊」を研究対象とすることを提唱する。「民族舞踊」とは、一九五〇年代、共産党の文化運動の一環として、民族歌舞団(文化工作隊)が、日本各地に伝わる芸能を「国民文化」として再創造したものである。この「民族舞踊」は、一九七〇年前後から民舞教育という形で、全国に広がっていく。一九九〇年代には民舞教育に、再び芸能の地元を志向するような方針転換がみられるが、大きく普及した「民族舞踊」は、その理念性が後退し、様々な文脈で実践されている。芸能を絶えず実践しつづけてきた「民族舞踊」のまなざしやその歴史は考察の価値が十分にある。だが、この「民族舞踊」は民俗芸能研究の対象としては無視され続けている。

 私は、大川平荒馬踊りという青森のある集落の芸能の現代史をみていくことで、「民族舞踊」が芸能の現場でどのように作用しているのかを考察した。「民俗芸能」として見出される以前に、秋田のわらび座に「民族舞踊」として見出され、その後、各民族歌舞団や民舞教育を通じて、地元を離れて全国に広がった荒馬。多様に広がった荒馬の地元外の演者たちのなかには、再び地元を志向し始める者もいる。一方で、地元の荒馬も、芸能大会や文化財指定などにより、衣装、由来、構成の変容を余儀なくされている。また、伝承者不足に対応するかたちで、青年団から、子ども会、青年団OBによる保存会などその伝承母体も拡大してきた。その地元と外部の人々が荒馬を通じてどう出会い、どのように現在を生きようとしているか。限界集落化が懸念される大川平に集まった学生たちと地元の人々がどのようにしてともに荒馬を踊り、祭りをつくっているのかをフィールドワークにより具体的に考察していく。時に、コンフリクトがおこる地元と外部の芸能の演者の出会いを前にして、「民俗の保存」や「国民文化の実践」ではない、芸能を語る新たな言葉がまさに現場から必要とされているのではないだろうか。

生業の変化にみる祈願の性格

草間 範子(筑波大学)

 生業についての祈願を取り上げ、生業の変化に伴い、それがいかに変化するのかを明らかにすることを目的とした。埼玉県北西部に位置する神川町を調査対象地とし、養蚕を中心として他の生業との移り変わりに焦点を当て、生業に携わった経験を主として聞き書きによるフィールドワークを行うこととした。

 本論は、井之口章次が『日本の俗信』(1975,弘文堂)において記述した、祈願の形式には共同祈願、合力祈願、個人祈願があるとする分類を礎とした。

 この共同祈願、合力祈願、個人祈願の三分類について、それぞれの特徴や関係に興味を持った。特に合力祈願と個人祈願は似た印象を受けたため、この二分類の間の差異や関係に着目したいと考えた。この視点から、本論では実際の事例における祈願とその背景を取り上げ、比較しようと試みた。できるだけ同じ条件下において比較するとともに歴史的変化も視野に入れたいと考え、特定の調査地に対して複数の時代に着目することとした。統計、聞き書きにより、調査対象地の主な生業は稲作・畑作、養蚕、果樹栽培と変化したと考えた。

 調査の結果から、祈願の形式は、歴史的変化よりも祈願の目的によって決定されるものと考えられた。稲作・畑作は天候や水利に大きく左右され、地域一丸となっての大きな範囲での祈願が必要とされた。養蚕では、個人の力量と運が直接収入を左右する。集団での祈願が廃れ、個人での祈願が盛んとなった理由はここにあるだろう。果樹栽培は、稲作・畑作において重大な問題であった天候や水利に対して、よりも強い抵抗力を持つ。また、個人の力量による増収は多くは望めない。この安定性から祈願が生じにくかったのだろう。

 また、合力祈願では受け身な参加態度になりがちなのに対して、個人祈願では寺社にすら頼らず、新たな祈願を生み出す積極性があるという性格も見られた。

ムラにおける講集団とその役割―長野市岩野地区の伊勢講を事例として―

塚田 仁美(新潟大学)

 村落の中には、本分家集団や地縁集団、講集団といった集団が様々な契機によって組織され、生活協同の機能を分け合っている。そうした実態を捉えるため、松代町岩野地区を調査地とし、主にこの地区において葬儀の際に機能する相互扶助集団ごとの役割について分析を行った。その上でこの地区における伊勢講の性格を明らかにし、諸集団の中での位置づけを試みた。

 岩野地区には、日常生活から冠婚葬祭に至るまで互いに助け合う、相互扶助的機能を持つ組織が複数存在する。そうした機能を持つ集団として、本稿では本分家集団であるウチワと、地縁集団であるリンカを取り上げた。岩野地区では、他家の手伝いが必要な時は主にこの2集団が集い、協力する体制が整っている。しかし葬儀の場合だけは、そうした関係にない者の手伝いが必要とされた。それが伊勢講による墓穴掘りと埋葬の作業である。

 伊勢講は地区全体で8組存在しており、伊勢講による葬儀への関与は葬送の際の野働きの分野に限定される。また、ウチワやリンカとして家の中で葬儀を取り仕切る内働きは、伊勢講としての野働きに優先される。このことから、岩野地区の葬儀において、最も中心となって仕事を担うのがウチワであり、彼らの指示を受け、家の中でウチワの仕事を補完する役割を持つのがリンカである。そして、野働きという葬儀の仕事の外縁部を担うのが伊勢講であるといえる。このような分担を機能させるため、講の仲間の中にはそれぞれの家にとって血縁関係にも地縁関係にもない家の者が必ず含まれている。

 岩野地区の伊勢講は、従来の研究において代参講の性格として考えられていた任意加入の性格は薄く、ほとんどの家がいずれかの組の講員になっている。この地区では、本分家・地縁集団と共に伊勢講もまた相互扶助組織として地域で生活を営むための重要な役割を果たしていたといえる。

「浜降り神事」の展開とその背景―福島県いわき市の「大国魂神社の御潮採り」を事例として―

森山 むつみ(東北学院大学)

 「浜降り神事」とは東日本に顕著な行事であり、その形態も神輿や御神体を海に浸したりなど様々である。これについては多くの報告があるが、これらの研究の基礎となったものに、岩崎敏夫の『本邦小祠の研究』がある。[岩崎敏夫、一九六三]しかし、この論で「浜降り神事」を作神系の神が旧暦四月八日に山から降りてきて禊をする日と定義されたものが定着し、長期に渡り研究に目に見える展開は見られなかったと考えられる。

 本論では、福島県いわき市平菅波にある大国魂神社の「御潮採り」を事例として、祭礼を儀礼面や集落の様子などからトータルに捉えた上で、集落にくらす人びとのなかで「御潮採り」がどのように考えられているのかという視点からの考察を試みる。大国魂神社の祭礼は生業の主体が農業である三大字と、漁業が主体の豊間という四地区の氏子によって行われる。生業の異なる地域が共に祭礼を行える理由として、「宿元」と呼ばれる遠藤家の存在と、豊間地区に伝わる、大国魂神社の御輿渡御による疫病退散というものがある。

 宿元に関しては、御神体を拾ったという「神話」を繰り返すための象徴であること、疫病退散に関していえば御神体が「薬師」の要素を含む可能性があるといえる。また、祭礼の特徴として「オサカムカエ」という全てのお旅所で行われる儀礼が挙げられるが、これは従来の「山から神を迎えて禊をする」という論だけでは説明出来ないといえるものでる。

 以上のことから、かつての「浜降り神事」という捉え方ではなく、一つの祭礼をトータルに考察し、詳細に検討することで従来の研究を再考し、新たな視点で検討することが可能であるといえよう。

俗信―群馬県の禁忌習俗と地域社会―

松本 麻里(東京家政学院大学)

目次

はじめに
第一章 俗信と禁忌の定義
  第一節 研究史を兼ねて
  第二節 禁忌の性質
第二章 群馬県の風土と民俗
  第一節 自然背景と歴史背景
  第二節 地域区分と上州民俗
第三章 群馬県の禁忌習俗
  第一節 土地の忌み
  第二節 物の忌み
  第三節 忌まるる日時
  第四節 その他の禁忌
第四章 まとめとして
おわりに

研究概要

 俗信という概念は、今日の日本社会において、広く根付いてはいるものの、その中心となる科学的思考・合理的思考にそぐわないという理由から信憑性に欠けるものと見なされがちである。

 しかし、その一方で、語呂合わせなどによる縁起担ぎや暦注といった俗信を気にかけている人は多く、そういった俗信は暗黙のうちに行うべきこととして人々の生活習慣の中に強く根付いており、地域社会や同族集団の中にも習俗や家例といった形で、固く守られている俗信が散見している。

 本報告では、このように慣習化された俗信の持つ地域性、ならびに地域社会との関連性を明らかにするということを目的としており、出身地である群馬県内に伝わっている俗信のうち、禁忌習俗に焦点を絞り、これらを体系的に見て考察した。

 第一章では、これまでに行われてきた俗信研究の流れを追って禁忌事項の分類を取り上げ、本稿における俗信の定義を定めている。第二章では、俗信が伝わる地域社会の背景として群馬の風土や歴史を紹介したうえで、郷土史の先行研究を追いながら群馬の地域区分を提示した。第三章では自治体史や民俗調査報告書といった資料から群馬に伝わる具体的な事例を分析し、第四章では総じてまとめとしている。

 その結果、群馬県では地形や自然環境による生活文化の違いが、そのまま民俗にも反映しており、その環境の違いが各々の地域の民俗的特徴を生み出しているということが判明し、その禁忌習俗を守ってくることで、共同体の結束力を高めてきたのだということだということが推察できた。

語り物の中の真田幸村―江戸時代から現代まで―

大塚 麻未(東京家政学院大学)

目次

はじめに
第1章 史実の中の真田一族
第2章 近世から近代の真田幸村像
 第1節 落語の中の真田幸村
 第2節 講談の中の真田幸村
 第3節 歌舞伎の中の真田幸村
 第4節 民話と神社―真田幸村像―
第3章 現代の真田幸村象
 第1節 ゲームというメディアから生まれた群雄たち
 第2節 ゲームの影響による経済効果と武将への認識度の上昇
 第3節 ゲームの真田幸村像
 第4章 上田の地を訪ねて
おわりに

要旨

 真田幸村は安土桃山から江戸時代にかけて活躍した武将である。今日真田幸村は、今流行りのゲームによって女性から多くの人気を得てはいるが、それ以前にも講談や小説などで英雄として書かれ、注目されている。

 今現在世に知られている真田幸村は、大河ドラマや歴史小説などの読み物による創られたキャラクターが強い。智将として知られ、徳川家康をあと一歩まで追いつめたとして勇猛果敢な場面も持つ真田幸村であるが、実は「真田家の歴史」の中では大した実績は無いのが事実である。幸村の祖父の幸隆や父の昌幸のように城を築いたり、兄の信之のように家督を継ぎ領地を持ったこともない彼が英雄として描かれるのは何故か。

 卒業論文では、一般に知られている真田家の歴史を踏まえたうえで、江戸時代から現代までに伝えられている「落語」「講談」「歌舞伎」といった芸能の演目を簡単に紹介したのち、「民話」といった大衆の中で語られた真田幸村を考察した。また現代流行している女性の「戦国武将ブーム」がどの様に起き、影響しているのかを述べた。

 また実際に真田幸村の故郷である長野県上田市にも行き、真田家に関わる史跡や資料館を訪れた。

 発表は、主に現地調査した神社の写真などを資料として用い、真田の名の付く神社と愛知の民話と現代の戦国武将ブームについての考察を中心に行うことを目的とする。

那須野ヶ原の殺生石(せっしょうせき)をめぐる伝承世界

出口 雄介(東北大学文学部人文社会学科 宗教学専修)

 栃木県北部の那須野ヶ原という地域には、玉藻前(たまものまえ)という妖狐の怨霊が変化した、毒吐く巨石「殺生石」の由来をめぐる伝承(本論文ではこれを総称して、「殺生石伝承」とする)がある。本論文がめざすところは、伝承の成立および変容の過程をみることで、この伝承が那須野ヶ原という地域においてどのように捉えられていたのかを明らかにすることである。

 殺生石伝承は、御伽草子『玉藻の草子』諸本と、源翁心昭という僧侶の伝記的文献(源翁伝)を起源とする。『玉藻の草子』(およびそのモデルとなったであろう伝承)はもともと玉藻前退治を主題とする物語であり、殺生石は物語に現れなかった。しかし、源翁が殺生石を教化し、砕いたことを記す源翁伝において、殺生石は玉藻前の霊が変化したものだとされ、ここから二つの伝承(物語)が結合していった。

 これらはそれぞれ、1400年代前半にテキストとして成立し、二つが結合し、現在に残る伝承のアウトラインが出来たのは1500年前後と考えられる。

 一方、1600年代後半に那須野ヶ原において記された『那須記』をはじめ、近世になると地名由来などの在地伝承と結びついたかたちで、『玉藻社略縁起』や、喰初寺(くいぞめでら)の縁起などの殺生石伝承が生まれた。その背景には、近世になってから文芸・演劇などで殺生石伝承の作品化がすすみ、大きくアレンジされていったことが想定される。そうした動きに対抗するように、殺生石伝承が那須野ヶ原の文脈において語り直された、いわば「那須野ヶ原の殺生石伝承」が生まれたのではないか。

 殺生石伝承は以上のように成立・展開していったが、このような語り直しを通じて、殺生石伝承は那須野ヶ原の歴史と強固に結びつき、那須野ヶ原の代表的な伝承として確立していった。

犬聟入の研究

加藤 杏沙(國學院大學)

 日本の昔話「犬聟入」は、異類婚姻譚のうち異類聟譚に含まれる。人間の娘と犬の婚姻を語る説話で、犬が始祖と語る「始祖型」、犬の妻による仇討ちを含む「仇討ち型」に大別される。「仇討ち型」では、娘は犬の仇討ちに人間の男である猟師を殺すという異例の行動をとる。これにはどのような要素が関係しているのだろうか。

 福田晃は、「犬聟入(仇討ち型)」は、東アジアの犬祖伝説が沖縄を経由し、日本本土の中央、京都・大阪あたりで「女の仇討」、「七人の子をなすとも女に心許すな」のことわざと結合して成立したと考えている。日本の「犬聟入(仇討ち型)」と最も類似している中国南部海南島の犬祖伝説には母子相姦の要素が含まれている。女と犬の間に息子がうまれ、息子は狩りに出て犬を殺す。母は犬が父であったと息子に明かして去り、変装して息子の前に現れ結婚、一族は栄える。「犬聟入」の底流にこのような母子相姦型犬祖伝説があるならば、「犬聟入」の猟師は犬と娘の間にうまれた息子に相当するが、実際は、猟師は血縁関係のない他者として、犬と娘のすむ山という異類世界に、人間世界という外部から来訪する。犬と山に入った娘を「山姫」になったと語る「犬聟入」の事例がある。人間世界を逸脱した娘を「異類」とすると、娘にとって人間は異なる存在、「異類」である。「犬聟入」の異類聟には、犬だけではなく猟師もあてはまるのではないだろうか。

 流血する犬をまたいで坐ったので娘は月経があると語る「犬聟入」があるように、犬と娘は産育信仰でも結びつきが強い。娘は犬を殺さず、代りに猟師が犬を殺害、娘は猟師を殺害する。小澤俊夫は異類聟譚の「異類の来訪―結婚―殺害」という連鎖の構造を指摘している。「犬聟入(仇討ち型)」は、犬と猟師の来訪―結婚―殺害という、二つの異類婚姻譚が一部重複しながら連続している構造を持っているとは考えられないだろうか。