民俗学について

 民俗学とはどのような学問でしょうか。この問いに一つの答えを見つけ出すことは容易ではありません。時代によって、国によって、研究者ひとりひとりによって、民俗学のかたちもさまざまだからです。このコーナーでは民俗学に携わってきた研究者たちが、それぞれの視点から民俗学について考え、それをコラムとしてお届けします(不定期掲載)。

第3回「民俗学の魅力」

常光 徹(国立歴史民俗博物館)

 私たちの目の前の生活がなぜこのようなあり方をしているのかという関心や疑問に対して、伝承という営みに注目しながら、その背後に横たわっている意味やしくみ、また、それがどのような関係性のなかに成立し機能しているのか、そして、現在に至るまでの移り変わりの姿、そこに込められた人びとの心意や知恵・技といった事柄を聞き書きなどの方法を用いて明らかにしていくのが民俗学だと考えています。

 「伝承」に注目してと書きましたが、この言葉もさまざまな使われ方をしていて捉えどころのない面があります。私は基本的には、意識的であるか否かにかかわらず、言葉や動作、表情などによって表出される知識や技術、心意などを人と人との関係のなかで身につけていくことだと理解しています。ただ、民俗学では一般に、常に繰り返されていくなかで類型性や地域的な広がりが形成され、一定の歴史的な深度が確認できるような日常生活の事象に対して伝承の語を用いる場合が多いように思います。

 現在、私が関心をもっているのは俗信です。「カラス鳴きが悪いと人が死ぬ」とか「霊柩車に出合ったら親指を隠せ」といった生活のなかの身近な言い伝えで、予兆・占い・禁忌・呪(まじな)いに関する諸事象を俗信と呼んでいます。平生は気に止めていないようでも、いざとなると意外に気にかかるのが俗信で、日常の具体的な場面で影響を及ぼしていることが少なくありません。

 こうした俗信を民俗学の立場から研究することの意義は何でしょうか。柳田國男は、呪いや禁忌を生活の技術と呼び、技術の基礎にある「世の中の見方がどうであったかを知ることに目的がある」と述べています。現在の私たちの感覚では呪いを技術と呼ぶことには違和感があるかもしれません。しかしこの発言はとても含蓄に富んでいます。たとえば、モノモライ(麦粒腫)ができたときの呪いを例にとれば、これを取るには、近所の家々をたずねて障子の穴から手をだし、その家の子どもからお握りなどをもらって食べれば治るといわれてきました。今日からみれば取るに足りないたわいもないことのように映りますが、しかし、かつてモノモライを治すための手段・方法として、日々のいとなみのなかで生きた技術として実践されてきた生活がありました。ここでは技術(手段・方法)そのものの優劣を問うことではなく、そうすることでなぜモノモライが治ると考えたのか、技術としての呪いの背後に横たわっている人びとの心意や病気観を明らかにすることでしょう。

 先ほど紹介した「霊柩車に出合ったら親指を隠せ」という呪いは多くの人が知っています。そうしないと親が早死にをするからなどといいますが、もともと親のためを思ってやっていたわけではありません。畏怖すべきことがあれば親指を握り隠すという呪いは江戸時代の記録にもみえており、葬式や夜道を歩くときなど何らかの意味で恐怖を感じる場面に遭遇したり、あるいは不安な状況に足を踏み入れたとき、自らが蒙るかも知れない災禍を未然に防ぐ狙いで行われてきました。そこには目に見えぬ邪悪なモノがしばしば親指の先から侵入するとの観念があったからです。大正期に霊柩自動車が登場すると、都市を中心に見かける機会が増えたため「霊柩車に出合ったら」という言い方が生れたのでしょう。また、親指を隠すのは親を隠すためだとの解釈も、本来の意味が忘れられたことと明治以降の学校教育を通して、「親指」の呼称が一般化していったことが影響していると考えられます。親指を隠すのは邪悪なモノから身を守る防御の形ですが、反対に、爪弾きのように外に弾くのは相手を払ったり嫌悪の情を示す意味を帯びています。指を「隠す」か「弾く」かで表意作用の方向が入れ替わります。「親指を隠す」というさりげないしぐさの背後にも、目を凝らせば、親指という身体をめぐる人びとの心意や歴史を垣間見ることができます。民俗学の魅力の一つは、自明視している日常の一齣を対象化し、そこにこだわることから浮かび上がってくる伝承文化の発見(おもしろさ)ではないかと思っています。

(2012年9月掲載/所属・肩書きは執筆時のものです。)